【桜井】(株)植松電機の歴史と事業についてお伺いします?
植松電機は、樺太で自動車修理業を営んでいた植松清治(祖父)と、その息子の植松清(父、現社長)が、北海道芦別市に移住してから始めた電気機械修理業です。
創業者の父、植松清は1962年に開業しました。私は1994年に北海道に戻って家業の手伝いを始めました。親子二人だけでがんばってきましたが、電気機械の修理の仕事は、炭坑の閉山にともないどんどん縮小していきました。幸い、私が本州で身に付けて来た技能が役に立ち、2000年からは、工場を赤平市に移転し、リサイクル用の特殊機器の開発を専業で行う会社として新スタートをきりました。父とたった二人からスタートでしたが、6年間で社員20名の会社に成長しました。
◆大学で機械工学を専攻されたのは?
小さい頃から飛行機やロケットが好きで、紙飛行機を作ることにのめり込んで、自分で設計して作っていました。でも、そんなことばかりやっていたので、学校の成績は最低でした。(笑)
中学校の進路相談で「飛行機やロケットの仕事がしたい」と言ったところ、「ばかじゃないの?お前の頭で出来るわけないだろう? というか、この町に生まれた段階で無理だわ」と進路の先生に言われました。「飛行機やロケットの設計は、東大出じゃないと出来るわけがない」というのです。
しかし、僕の心の中にいたライト兄弟が「僕たちは東大に行っていないよ」とささやきました。先生の言葉を無視して、僕は飛行機やロケットの勉強を独学でし続けました。でも、周りからは「そんな趣味は無駄だ!受験に関係のないことをするな!」と言われ続けました。(苦笑)願い叶って希望の大学に進学し、流体力学を専攻しました。そこで待っていた学問は、なんと馬鹿呼ばわりされながらもずっと続けてきた勉強そのものだったのです。おかげで、大学では流体力学で苦労することはなく、多くのことを学ぶことができました。
◆菱友計算社ではどんなお仕事をされていましたか?
人材派遣会社とは知らずに入社しました。(笑)
しかし、偶然にも、日本最大の航空機開発会社に派遣されて、嬉しいことに、自分が小さい頃から憧れ続けてきた航空機設計会社で働くことができました。ここでは、高性能なコンピューターを使用して、空気の流れを数値解析し、その結果をCGで目に見えるようにするというような仕事に携わりました。実務の経験も素晴らしいものですが、もっと嬉しかったのは、多くの航空機開発技術者が持つモラルに触れることができたことです。
「15年先をみた設計をせよ。相手と同じ土俵に乗るな。武人の蛮用に耐えよ」という設計思想をたたき込まれましたが、これは今のビジネスを支える重要な柱になっています。
◆植松電機に入られてから、どのような事業展開をされましたか?
最初は、慣れない仕事を父にたたき込まれるので精一杯でした。仕事は厳しかったのですが、その仕事じたいもどんどん減っている現状に不安がつのりました。先が見えず、本当につらい時期もありました。しかし、ちょうどリサイクル市場が成長し始めた時期で、父が細々と手作りしていたクレーン用の小型マグネットが、リサイクル市場で、油圧ショベル用アタッチメントとして注目され始めました。
前の会社で身につけた書類作成能力や特許作成能力を生かし、大きな企業と契約出来るようになりましたが、マニュアルの作成やパンフレットの作成も、すべて自分でやらなければならず、これはこれでとても大変でした。
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