◆それから、経営の修行がはじまったのですか?
私が会社に入ったら、おやじは区議会議員に出てしまって、会社に出てこなくなりました。入ってすぐに事実上会社を切り盛りすることになったのですが、当時、仕事は比較的順調で、経営者という自覚が無くても何とかやっていけました。
ところが、昭和48年の狂乱物価のときに、逆ザヤになってしまって、創業以来始めて赤字を出してしまいました。私はどうしていいのかわからず、呆然自失状態でした。その時におやじは3月ほど会社に戻ってきて、内外との交渉をこなし建て直してくれました。黙ってきて、黙って処理をして、私に一言も文句を言わず、区議の仕事に戻っていきました。
私は、初めて自分の経営の甘さ、先を見る目の甘さを身にしみて自覚しました。
経営者として反省させられたことのきっかけはもうひとつありました。会社に入って3年ほど経った時に、頼りにしていた社員が辞めたいと言ったのです。それまで自分の中ではいつ辞めてもいいといい加減な気持ちもあって、それが態度に出ていたのでしょうね。「俺がいい加減な姿勢でいたら、誰もついていきたいとは思わないだろうなあ」と、これは身を正さないかん!と反省しました。
◆そこから本格的な会社経営がはじまったのですね。
26歳から約10年間、地味ながら業績を上げ続けて行きました。今思うと、当時の私は、自分で何でもできると、思っていた、どうしようもなく生意気なヤツでした。(笑)
ライバル企業はたくさんあって、そことの勝ち負けばかりにこだわっていました。同業の集まりに行っても、当社より規模の大きい会社を見ると、あと何年で抜いてやろうか・・・なんてことばかり考えていました。前しか見ない嫌な奴でしたね。そんな時に、ある異業種の経営者の団体に中学時代の友人に誘われました。その団体に共同求人というのがあって、当社も人手が足りなかったので、そこにブースを2回出しました。ところが、2回とも誰ひとり来なかったのですよ。その時に、はっと気づきました。「うちの会社は本当に自分が来たい会社かな?」って。
また、この団体で異業種のさまざまな経営者と出会うことで、上には上があるということをしみじみと感じさせられ、自分を見つめることのきっかけにもなりました。異業種の同世代の経営者が入ってきた時期で、お互いに負けるものかって、いい意味のライバル意識もあるのですが、お互い知恵を出し合って協力しあうこともでき、私にとっては、「経営とは何か」ということを真剣に考えることのできた良い機会となりました。
◆地域に根ざした総合建設会社としての地元へのこだわりは?
会社から半径1キロ圏内での施工がかなり占めています。地元で支持される仕事をすることを基本にしています。地元に支持されないと会社の未来は作れないと考えています。
限られた地域ですが、この地域だけで年間10〜12億円の仕事になります。また、この地域でやらせてもらっている仕事は、この地域に返そうと考えて、なるべくこの地域の協力業者に依頼するように心がけています。
地元で生き残っていくためには、丁寧な施工をすることです。図面どおりにできただけではダメで、お客様の希望をどれだけ超えられるかなのです。「サプライズ」が、満足感につながるのです。そのために、作るプロセスでお客様としつこいくらいに打合せをします。現場に来てもらって、詳細にわたって希望を聞き、確認をとります。作り上げるプロセスを共有していただくことの中で、信頼感をどう作っていくかを重視しています。結果さえよければ良しではだめで、プロセスをいかに大切に作るかだと社員によく言っています。きめ細かい仕事ができるのは地元に密着しているからこそできるのだと思います。
◆建築業についてお伺いします。
姉歯元設計士による耐震偽装問題以降、お客様は大手企業のほうが安心だと考えて、地元の建築会社に依頼することが少なくなっています。地元の業者を使えばもっとコストを抑えられるのですが、不安があるようです。
東京はマンション建設があって、まだいいですが、地方は大変な様子です。でも、地方がだめだということは、東京にも淘汰の時代が、遅かれ早かれ来るでしょう。現に、個人事業でやっているような工務店は仕事が無くなっています。住宅メーカーの下請けをするなど生き残りに苦労しています。