福岡にお生まれですが、今の古川さんをつくった原点はどこにあるのでしょうか?
母と母方の祖父だと思います。
私の子どものころ、身のまわりで共働き家庭はそう多くなかったのですが、母は薬剤師、のち臨床検査技師として働いていました。母が身をもって示してくれた、仕事を持ち続ける女性の姿は、私の「なりたい自分」の基盤です。
母方の祖父(故・下澤轍)は、博多人形店を営んでおり、戦後に「博多どんたく」を復活させることに力を尽くし「どんたく大将」と呼ばれました。また、福岡の中心部に「新天町」という商店街を創設する事業で「新天町」の中に「博多山笠」の飾り山を立て、祭りの中に生きる町人文化により活性化を図った事などの評価により、「福岡市名誉市民」に選定していただきました。
祖父は、飾り山の上にアニメキャラクターを載せるという、今では当たり前になっていることを初めてやった人でもあります。この経緯は当時「シンデレラショック」と呼ばれたそうですが、伝統に安住せず新しいことに挑戦し、自分たちの地域や商売に注目を集めようということだったのでしょう。小さい頃は「お祭りが好きなおじいちゃん」としか思っていませんでしたが(笑)、「どんたく大将」の孫であることは誇りです(下澤轍についての記事を集めたブログは こちら)。
◆お祖父様は博多の名士であり変革の方でもあったのすね。古川さんはたくさんの職歴をお持ちですが、初めに就かれたお仕事は?
最初の仕事は教師です。高校2年ごろには教師になると決めていました。理由は、国語がとても好きだったことと、女性も男性も同じ仕事内容で同じお給料だと聞いたからです。現実的でしょう(笑)
地元の私立の女子高で5年間、国語を教えました。今、思い出してみると、教科指導よりクラス担任や部活の顧問、文化祭・体育祭・修学旅行、進路指導などの記憶が多くよみがえってきます。たくさんの生徒や保護者の方々と触れ合い、人の成長に伴走し、可能性を引き出す充実感を体験しました。
実は、最近、ブログを通じて当時の担任の生徒が連絡をくれました。地元で健康サロンのオーナーになっているそうです。当時の印象からは少し意外でしたが、同時にそんなに成長したと知って、とてもうれしかったです。
◆教え子の成長した姿と接することができるのは、教師という仕事の醍醐味ですね。上京されてからは、どのような仕事をされましたか?
上京して最初の仕事は塾講師です。土地勘がなく、とんでもなく遠方の教室への配属を受け入れたのが失敗で(笑)長くは続きませんでした。塾と並行して、外国人の日本語チューターのボランティアをしていました。ありがたいことに、担当していた留学生の方が、自分の通う大学院の、研究所秘書の仕事を紹介してくださいました。そこで2年間働きながら勉強して、日本語教師の資格を取得しました。
改めて日本語教育の仕事をしようと、横浜市の女性センターの職員採用試験に応募しました。そのセンター発行の「横浜市在住の外国人女性の調査」という報告書に「日本語の支援が急務」とあったからです。競争率はけっこう高かったので、職員に採用されたときはうれしかったです。
◆ワクワクしながらの新しい仕事へのチャレンジですね。
ところが、日本語支援の事業は結局立ち上がらず「広報担当」となり、情報誌の発行などの広報業務を、初めて経験することになりました。わからないことだらけでしたが、外注のデザイナーさんや印刷会社の方に助けていただきながら、仕事をマスターしていきました。5年間、月刊の情報誌と年2回の事業案内を発行し、5年目には公式サイトとメルマガの立ち上げを企画・実施しました。
その後1年半は、講座などの事業企画や市民利用施設の管理運営を担当し、約100本の講座を定員達成しました。内容は、趣味から起業した女性を講師に招いて教室を体験する企画や、地域で仲間作りをしたい男性向けの料理講座、女性の再就職講座や育児休業からの復帰準備講座などでした。
仕事は楽しかったのですが、在職中は年々、公共団体への風当たりが強くなっていました。転身するなら早いほうがいいと思い、6年半勤務した女性センターを退職しました。
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