◆最近「左手の証明」という本を読みました。ちかん冤罪事件のドキュメンタリーですが、その
「左手の証明」は、ナナ・コーポレート・コミュニケーション出版の小澤実さんという記者が追いかけたちかん冤罪事件のドキュメンタリーですが、お読みになりましたか。痴漢冤罪と日本の刑事司法の問題点を描き出した周防正行監督の「それでもボクはやっていない」という映画が話題となりましたね。この事件は、映画のモチーフにもなっています。
映画の製作の過程で周防さんから取材を受けたこともあります。クランクイン直前に、「左手の証明」で取り上げられた西武新宿線の冤罪事件で、一審有罪の判決を覆し、東京高等裁判所で逆転無罪を得ることができ、周防さんと一緒に喜び合いました。あの事件は初めて無罪判決を取った事件です。印刷会社に勤務する妻子ある40代の真面目なサラリーマンMさんが、電車内で女子高校生に痴漢をしたとして、強制わいせつ罪に問われた事件です。本人は、警察署で罪を否認したため、逮捕・勾留・起訴され裁判を闘うこととなりました。保釈が許可されたのは、逮捕後105日、妻は体調を崩して重度のうつ病となり、被告人は収入の道を絶たれて生活保護を受けながらの裁判でした。権力に人生をもてあそばれたMさんが払った代償はあまりにも多すぎました。あきらめずに戦い抜いたMさんはおおきなものを社会に残してくれました。Mさんをはじめ名もなき英雄がいてくれなければ、「それでもボクはやっていない」の映画もできなかったことでしょう。
◆死刑判決についてどのようにお考えでしょうか?
残忍な殺人者には、死をもって償うのが当たり前だという発想がありますが、世界的には死刑制度のある国は少数になっています。アメリカでは州によって制度が残っているところは半分くらいですが、実際に施行されていないところがほとんどです。死刑制度が残っているのは本当に中国、イランなどと本当に少数です。一つには野蛮な刑罰であるという、もう一つには、人が裁くわけですから、必ず間違いがあって、特に死刑制度がある国では、本来殺されるべきではない人が国によって命を絶たれるということもあって、死刑制度は非常に問題のある制度だと思っています。
どんな極悪犯人であっても、その人に人権があるかどうかということを承認するかどうかということが、民主主義を認めるかどうかということの試金石です。どんなに反社会的でむごい事件を起こした人物でも、その人が人間として価値があり、生きていく意味があるのだというところを認めないと、私たちがつくっている社会のコンセンサスが成り立たないわけです。ですからそれを認めるかどうかということが、民主主義社会を認めるかどうかの出発点です。そこから考えると、悪いことをした人を何らかの処罰を受けるということを承認したとしても、それは誰にでも平等に適応されるルールに従って、処罰されなければなりません。もっと言うと、その人には自分を弁解する権利を認めてあげ、弁解したことに対して袋叩きにするということは問題のあることです。なぜ我々が悪人を弁護するかというと、民主主義を制度として承認している以上、その人にはその人なりにそうせざるを得なかった言い分があるはずです。それを社会的に抹殺することはできません。最終的には裁判官が判断すればいいわけです。その人の反論の時間と機会を確実に与えてあげることは大切なことで、こいつにはそういうことを与える必要がないと言った瞬間に、民主主義での刑事制度は死んでしまいます。
私たちが見ていることは、マスコミを通じて本当らしいと、何の根拠もなく思っているだけで、実際直接被害者・加害者に会った人が見ているものは往々にして違うことが多いのです。痴漢冤罪事件もそうです。報道されたらみんなそうだと思いこんでしまいます。弁警察は初めから有罪にしようと思っていますし、マスコミも有罪前提の報道がなされますから、家族は孤立し、弁護士だけが真実を知っている状況です。本人が一番苦しいのですが、弁護人は同じように苦しい思いをしました。違う見方があるのだという余裕のない社会というのは、とても危ない社会だなあと感じます。
◆殺人事件の被害者の家族はどのように感じているのでしょうか?
被害者の家族の多くの場合は、必ずしも極刑を望んでいるかというとそうではありません。刑務所で犯人と何回か面会をして、その中で本人が悔いる姿を見て心を癒していく人もいます。決して、家族を殺されたものに対して、その命を奪うことによって、その人の気持ちが癒されるかというと、決して癒されることはないだろうと思います。殺された者が仕返しをすることによって、正義を実現するというのは根本的に間違っているのではないかと考えます。残忍な事件の加害者をマスコミがあおってみんなで袋叩きにしていくということでは、その事件から社会が何を教訓にして、どんな社会をつくっていくのかという議論に全く繋がっていません。このことのほうが問題です。社会にとっては、二度とそういう事件が起こらないようにするには何をすべきかを考えるのが国であり、我々の仕事ではないかと考えます。悪いことをやったのは自己責任だから刑務所に行きなさい。しかし刑を終えて出てきても住むところがない、収入がない、仕事もありません。刑を終えた人を受け入れる余裕のある社会をつくらないと、犯罪は絶対になくなりません。
◆ボランティア活動にも力を入れていらっしゃいますね。
日本人はとても幸せだと思います。たまたま日本に生まれただけの話なのですが、実際には、1日1ドル以下で生活している人が世界に10億人います。今日どうやって食べていこうかと心配をしなくていい、帰って寝るところがあるということだけでも、幸せなことです。同じ時代にこの地上に住んでいて、池間哲郎さんが話していらした「私の夢は大人になるまで生きていることです」と大人になるまで生きていられないという問題が現実目の前で起こっているのだけれど、その現実をイメージできない人間の想像力の低さを感じます。これだけインターネットが発達して情報が氾濫している中で、見ようと思えば見ることのできる事実を私たちは知ろうとする努力をして欲しいと思っています。
事務所理念「平和と国際友好を目指すパートナー」の活動として、アジア地域の発展途上国支援やアフリカのHIV医療に取り組むイナダ・ラング・エイズ研究財団(ILFAR)への支援、ビルマの民主化運動や日本のビルマ難民支援活動などを行っています。また、法律家が中心となって設立したNGO[ヒューマンライツナウ]の活動にも参加しています。
◆弁護士の仕事についてどのようにお考えですか?
毎日絶望の淵に追い込まれた人たちの相談を受けています。相談にこられる方は、職場のセクハラ、経営難になった経営者、離婚、交通事故で親を亡くした人と、その人にとっては人生終りという気持ちで来るわけです。そういう人たちが乗り越えれば幸せになれるよというお手伝いを、私のできる限りの力でやってあげることで、頼んでよかったといってもらえたらと思っています。それは単にお金が取れたから、裁判で勝ったとか負けたとか、それが窓口ではあるのですが、それを求めているのではなくて、もっと深い生きる意味や生きがいを一緒に見つけてあげ、こちらも教えてもらうという仕事だと思います。世の中には誰も解決できないことがたくさんあります。その中で、個人の夢としては、弁護士としての経験を生かして、イスラエルとパレスチナの紛争や、アフリカの民族紛争などの国際紛争の仲介役などができればいいなあという夢を持っています。
1990年代アフリカのルワンダで民族浄化の内紛がありました。岩波新書の「生かされて。」という本の著者イマキュレー・イリバギザさんは、隣人や友人だったフツ族が襲いかかり、彼女の家族も惨殺されてしまうのですが、彼女はそれを許しているのです。仕返しを考えると未来永劫民族紛争はなくなりません。彼女は教会の隠れトイレで3ヶ月間暮らして何とか生き延びて、今は国連の職員として働いています。そういう極限の苦しみを味わっている人たちに比べれば、私が悩んでいることだとか、事務所に相談にこられる人の悩みは、もしかしたら贅沢な悩みなのかもしれません。だからこそ、自分の悩みを乗り越えて、他の人の幸せの為に尽くすことの大切さに気づいたときに、前向きに生きていこうという気持ちになれるのではないでしょうか。
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