富士国際旅行社の歴史は?
1964年、海外旅行自由化の年に設立の創業46年の非同族の会社で、私は三代目の社長です。旅行社としては草分け的存在で、日本の海外旅行の歴史とともに歩んできたともいえます。中国国交樹立後初の中国旅行、戦争終結後初のベトナム旅行を企画したのも当社です。主に平和、環境、福祉などテーマ性のある視察や交流の旅の企画や手配をしています。社員は20名規模で、組合ができて28年、20人規模で労働組合があるのも特徴といえます。
経営だけはやりたくないとおっしゃっていた市原さんですが、どうして社長を引き継がれたのですか?
1983年、第二次オイルショップで消費が冷え込む状況の中で、いい加減な経営をしていた結果が出ました。それまでもいい仕事はしていたのですが、経営理念がしっかりしていなくて、どこに向かってどういう仕事をしていくのかということが、明確になっていなかったことと、営業所及び部門の業績格差がありすぎたことが原因でした。私が入社した時は10人足らずの会社でしたが、その時には40人になっていました。旅行会社もさほど多くは無かった時代でしたので、ある意味では経営者の器を超えた規模になってしまったということでしょう。私も辞めるつもりで、荷物を全部家に送ってしまいましたが、リストラ以前に若手の社員がどんどん辞めてしまいました。私のお客さんがかなりいたので、迷惑をかけられないと思い、仕方なく会社に役員として残ることになってしまいました。13人ほどの規模になって、そこから建て直しが始まりました。
社長になられて、どのように建て直していかれたのでしょうか?
経営のことなど何も知らずに社長になってしまいました。営業のトップをやるのと、社長をやるのは全く違います。同じ位の経験をしてきた仲間が私の両腕になってくれて、3人で役割分担をして経営に当たりました。スーパーマンが一人でやる時代ではありません。
はじめに取り組んだのは、会社の理念づくりでした。会社がどこに向かって進んでいくか、明確な方向性が必要です。数年をかけて経営理念をつくり、理念に基づく営業の基本戦略、業務心得、お客様対応、旅づくりの考え方などの方針を作成しました。就業規則などの規定も整備しました。 時代の後押しもあって、業績は抜群によくなりました。自分が経営のトップになって、業績が上がって上手くいったと思っていたら、入社2〜3年の仕事ができるようになった社員が1年に6人も辞めてしまったのです。旅行業は夏に7〜8割の仕事が集中して、かなりハードな仕事が続きました。賞与もかなりの額を支給していたので、なんか文句があるかと思っていましたね。会社はただ仕事をして稼げばいいだけではないということに初めて気がつきました。旅行のプロで現場をやってきた者が、はい今日から社長ですといわれてもできるわけではありませんでした。これはいかんと、何の為に仕事をするのかという原点に立ち戻り、「経営とは人育て」と、人材教育を学び始めました。
社員教育に力を入れたのですね。
社員教育と新卒採用に力を入れはじめました。社員のやる気を引き出すにはどうしたらいいのか。人の問題は時代によってどんどん変化しますので、これで良いということはありません。永遠のテーマです。1990年ごろから東京中小企業家同友会の教育委員会の活動に参加して、新入社員研修に力を入れました。その結果、ずいぶん変わってきたと思います。
旅行業の現実は?
旅行業は、本当は夢と感動をつくる仕事ですが、現実はかなり厳しい業界です。業績が戦争、事件、疫病、景気などの社会情勢に大きく左右されます。当社も何度も倒産の危機にあいました。この10年の旅行業の傾向として、第一種旅行業の30%は倒産、廃業、合併で消えていきました。それに加えてネット販売、大手先導、新聞広告での安売り量産パック旅行、高付加価値つき旅行なども増えています。また、2008年の世界金融危機以降の渡航者の減少は、事件や国際情勢だけの変化ともいえません。価格競争もますます激化しています。
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