その後どうされましたか?
ラジオ局のある番組のフロアディレクターをしました。一所懸命にやっているように見えたのでしょうか。それがある落語家の目に留まり、事務所をつくるのでマネージャーとしてきてほしいと誘われました。その人はとても厳しい人で、電話の受け答えひとつにもダメだしが出て、緊張のあまり電話に出るのが怖くなったこともありました。私にとってあまり思い出したくない時代です。その後もいくつかの音楽事務所を転々としていました。給料はたいしたことが無かったですけど、毎晩いい店だけには連れて行ってもらいました。(笑)
その後デザイン会社に入社されましたね。
結婚することになり、どこかまともに就職しなければということで仕事を探しました。音楽関係の仕事をしたいと求人広告を見ていたら、あるデザイン会社が音楽ディレクターを募集していて、その会社に入社することができました。この会社はCDグラフィック(CDG)というカラオケのグラフィックを作るデザイン会社でした。社長に気に入られて、かばん持ちみたいに本当に毎晩、赤坂にお供していました。韓国にもCDGの売り込みに毎月10日間は通っていました。それが一年以上続いたでしょうか。当然わが家に私のお茶碗はなくなっていました。新婚なのに毎晩私は帰らない。妻は怒り心頭、いくつ私の茶碗を割ったでしょうか。(苦笑)
そのうちバブルがはじけレコード会社がカラオケから撤退することになり、下請けであるデザイン会社の仕事がどんどん減っていきました。これはいかんと、3年半でその会社を辞めました。レコード会社に退社の挨拶に行ったら、「ちょうどいいところに来た。通信カラオケを始めるから一緒にやってくれ」といわれ、通信カラオケの立ち上げにディレクターとしてかかわりました。
独立したのは?
35歳で独立すると以前から考えていました。ある雑誌に松下幸之助の「商売は儲かるようにできている」という言葉を見つけ、「そうか、普通にやれば食えるのだ。気負うこともない」とレコード会社を辞め、通信カラオケのデータ制作会社を設立しました。蓄えは200万円。当時は有限会社でも300万円かかり、当然足りません。そこで休眠会社を買おうと、税理士の先生を紹介してもらい相談に行きました。話を聞いてくれた先生が「私が300万円出してあげる」とポンと出してくれました。きっと私は独立の思いを情熱的に語ったのでしょう。(笑)
社名「レインボー・ノーツ」の由来は?
陽気な妻が派手な「レインボー」がいいと言い、私は音符という意味のノートを複数形にして「ノーツ」(notes)、それで「レインボー・ノーツ」と名づけました。山一證券が潰れるなどの最悪の時期で、周りからはよりによってこんな時期に独立するなんてと言われました。
1997年、念願の有限会社レインボー・ノーツを中目黒に設立しました。
「虹色の音符」、素敵な社名ですね。事業内容は?
音を核としたデジタルコンテンツの制作会社です。平たく言えば、パソコン上でできるものは何でもやろうという思いでつくりました。通信カラオケはパソコン上でつくります。
一年目は独立したということで、ご祝儀的にいろいろなところから仕事をもらい、順調な出だしでした。2年目に入り、まだ蓄えのない会社でしたから、もらえるはずの仕事が延びた時にはかなりきつい思いをしましたね。カラオケの仕事が柱でしたが、他にグラフィックやフラッシュを使った紙芝居のような作品も作っていました。しかし時期が早すぎました。まだISDNの時代だったので、1作品をダウンロードするのに20分以上かかり広まらずに終わりました。
当時60人くらいの外注を抱えていました。こんなにたくさん受けてくれるところは他にはないと、どんどん仕事が増えていきました。そんな中で着メロが始まりました。以前から私はこれから着メロの時代が来るだろうと密かに研究をしていたので、ついに来たか!という思いでした。仕事が来ると「できます!」と即答しました。同時期に7社、最終的には160社からオファーがありました。しかし誠実というか商売下手というか、厳選して1社とだけ契約をしました。この仕事も私が自ら全曲、毎晩夜晩くまでチェックして納品していました。いい加減な会社が多かったおかげで、音が一番いいという書き込みが増え、曲数がドーンと増えました。そこで外注だけでは間に合わず、人を雇い始めました。面接した人は全員入社と闇雲な採用をしたおかげで、従業員の士気の低さに悩みました。私は、仕事は一所懸命するのが普通だろうと思っていましたが、さぼりまくる社員たちにどうしたらいいのだろうと悩んでいました。そこで「経営者の勉強会」をネットで検索して、東京中小企業家同友会という団体を見つけ入会しました。その定例会ももちろんですが、二次会で皆が経営者の悩みを本気で語り合ったことがとても勉強になりました。はまりましたね。(笑)
経営塾を作られたそうですね。
講師を呼ばず参加者主体の「五本木塾」という無料の勉強会です。本気で話せる飲み会が重要だと思っていたので、その雰囲気で飲まずにやっていました。もちろん終了後には必ず飲みますが。初めて参加した人が、「発言できたのが嬉しい」と言っていました。参加者自身がしゃべって初めて満足できるのだと気づき、皆が公平に発言できるようにと心がけました。現在も活発な活動が続いています。私は初代の塾長になったおかげで、本を大量に読むようになりました。毎週10冊ほどの経営書を読み、経営の研究にはまりました。
結果、「私達はコンテンツ制作を通じ、日本文化の発展に貢献する」という経営理念をつくりました。また、2002年に株式会社に組織変更もしました。
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