【桜井】60年代に植松社長が防災関係のお仕事を始められたのは、どのような経緯があったのでしょう。
当時、私が勤務していた会社はトランジスタラジオ製造の草分けだったのですが、まだまだ経営的には難しく、業績不振で商品であるラジオを社員に支給しそれを売って給料の代わりにする等と言う乱暴な事も有りました。現物支給ですね。(笑)
次に転職した会社も倒産しまして、三畳一間の友人のところに転がり込みました。 その友人いわく、「営業って言うのはいい仕事だよ。とにかく朝、会社から外に出ていれば給料が貰えるのだから・・」そうか!と思い、池袋の職安にいきました。
現実はそんなに甘いものでありませんね。(笑)意気消沈して職安前の公園のブランコに乗っていたとき、中年の女性が声をかけてくれました。それが防災関係の会社の奥さんだったのです。
◆そこから23歳の若さで創業とはすごいですね
僅かな基礎知識の研修の後その会社営業として無我夢中に働きました。 当時は住宅難で、アパートの建設ラッシュで、消火器が面白いように売れました。 奥さんもよくしてくれました。今でもその心遣いは、今の当社の経営にも生きています。
バイクで営業に回っていたのですが、あるとき事故にあいました。当時は中小零細企業には労災なんてありませんでした。その時に自分の体は自分で守らなければいけないと気づき、自分で創業しようと決断したのです。今思えば、なんと無茶で単純だったのかと思いますね。(笑)
◆創業後はどうでしたか?
なんと嬉しいことに、仕入先は身一つの私に取引を許してくれました。電話も引けない私に暫くの間、事務所と電話番号を貸してくれた会社もありました。そういう方々の、暖かい応援があったのです。いい時代だったですね。
◆会社を起こされて、営業などで印象深かったことはありますか?
某、大手化学会社さんに営業に行った事はいまでも思い出されます。
はじめは守衛室の前で門前払いが何度も続きました。しかし若さのなせる力なのでしょうか、私の誠意がつたわったのでしょうか、担当者に繋いで頂くことが出来、ご担当者からその系列の設備会社を紹介していただきました。
私は、自社の商品を売り込むことより、お客様にどうしたら喜んで頂けるかと言う事を真剣に考え、お客様にとっての利益をどうやって提供できるかを真剣に考えて提案していきました。それが良かったのかも知れないですね。
営業に回っていたときにはいろいろな体験をしました。嬉しい事も、勿論辛い事もね。 ですから、当社にくる営業の人には冷たい対応をしないでほしいと社員にはお願いしているんですよ。夏の暑い時に来たときには冷たい飲み物くらい出してあげるくらいの気持ちをもって欲しいと。
◆それは営業マンにとっては嬉しいでしょうね。あちこちで、「関東消防機材」さんはいい会社だ!って言ってくれることでしょう。(笑)
現在の事業は、消防設備工事とメンテナンスが柱です。
某大手流通企業が当時まだ5〜6店舗の時からお付き合いをさせていただいておりました。メンテナンスの車には、蛍光灯などもメンテナンスの備品として搭載させているんですが。例えば、街の商店やコンビニエンスストアーに消防設備の点検にいった場合、お店の前の看板の蛍光灯が切れていた場合など、黙って直してあげるとかチョッとしたお店の不具合とかを手直ししてあげるなど、お客様の困った事をさりげなく直してあげることが大切だと思っていますから。
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