【桜井】 コピーライティングがご専攻だったのですね。
40年前、これからはコマーシャルの時代が来るという高校の先生の言葉で、レタリングの通信教育を受け、その後上京しました。学生時代、某大手菓子メーカーの清涼飲料の CM コンテストで月間賞を頂いたことがありました。ラジオの CM でした。耳からだけで夏のさやかさがイメージできるようなものにと苦心しました。嬉しかったですね。コピーライターとしては早い方で、糸井重里さんや林真理子さんの数年先輩になりますね。(笑)
卒業を前にして、数社の内定を頂いて、郡山の実家に帰りました。風邪かな??と思いながら病院にいったら、それがなんと大変な病気でした。すぐに手術になり、その後も郡山で療養生活に入り、結局は東京に戻ることはありませんでした。
大型量販店が郡山に進出することになり、 POP デザイナーとしてそのオープンに参画しました。 1969 年郡山に地方民放テレビ局ができ、先輩から声をかけられ、広告代理店で営業企画の仕事を始めました。昼間は営業、夜は制作と年中無休の日々が続きました。夢中で仕事をしました。若かったですね、とにかく仕事をしているのが楽しかったですよ。
会社の業績はどんどん上がっていきました。ところが、社長の放漫経営ではなくて放蕩経営で倒産してしまいました。社員の稼いだお金を遊興費に使っていたのです。(汗;)
まじめにやっていれば、県内 1 位にもなれたのに(笑) それをきっかけに、 1973 年、独立しました。
◆ 20代での独立ですね 。
会社経営をしたいと思ったことはありませんでした。仕事はとても順調でしたが、何せ若かったので世間を知らなくて、騙されたり、ずいぶん大変なこともありました。でも自分にはこれしかないと思っていたので、前しか見ずにがんばりました。
20年前に、東京の晴海の展示会で、コンピュータが POP を書くデモンストレーションを見た時、すごいカルチャーショックを受けました。自分がこれまでやってきた仕事は無くなる!と感じました。それまでは、大型店と小型店の領分が分かれていて、それなりに共存できていたのです。でもこれからは違う!大型店が小型店の領分に入ってくると思いました。
これからはどうやってモノを売るかが大切で、販売戦略が必要だと気づき、高橋憲行塾長の「企画塾」に入塾しました。
◆ 「企画塾」ではどのようなことを学ばれましたか?
当時珍しかった企画の専門家を育て、司法書士や行政書士のように社会に必要とされ、 認知される『企画書士』を輩出しようと言うのが、塾長の願いでした。
全国の受講生が通信教育で企画書作りを学び、毎月東京での「プレゼンテーション大会」に全国から参加しました。各自の書いた企画書を意気揚揚とプレゼンするのですが、講師の審査員から厳しいコメントがほとんどでした。でも、この厳しさが良かったですね。
新事業企画講座・新商品企画講座・企画教育講座などを終了し、第 1 期の『企画書士(9410005 )』の認定を受け、講師もさせていただきました。
私の考えは、「企画書」は企画を実現させる為の設計図だと考えていましたから、実現させる為の「調査段階」を重視しました。立派な企画書でも、実現可能か説明を求めると、返答できず調査が不十分なケースも多々ありました。また、この時に全国から企画塾に集まったメンバーは、モチベーションも高く、特に女性でキャリアアップを目指す方がたくさんいました。企画塾は、当時のビジネス雑誌にもよく紹介され、「企画書 100 事例集」や「通勤タイム企画術」などに、私の企画書の掲載や執筆もさせていただきました。 企画塾の仲間には、今でもお付き合いさせていただいている方や、 SNS などで 10 年ぶりに再会した方もいます。
◆ 東山社長が郡山に根ざしているのはなぜですか?
私は、自分の生まれた郡山が大好きです。そして 、 地方から日本を見る目線はとても大切にしたいと思っています。東京にいたら見えない何かが見えてくるものです。
バブルがはじけて、長年続いた不況と急速に進化し続ける IT 社会の中で、地方の小さな会社や小売店は 、 経営環境や経営手法を大きく変えていかなければ生き残れない時代です。地方自治体にあってもしかりです。
今の地方の商店街の就業形態も大きく変わりました。以前は殆どが正社員でしたが、今は契約社員、派遣社員、パート・アルバイトなどと、都市の構図と殆ど変わりません。 今の地方は危機的状況にあります。
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