【桜井】都立上野高校のご出身とお聞きしましたが。
はい、学校群になる2年前に入学しました。高校時代には、錬身部(柔道)に入っていまして、かなりの硬派だったのですよ。(笑)一年浪人をしたのですが、まあ受験勉強をするよりは、まずはパチンコに行きまして、そこで予備校の仲間と2人になって、次にはその2人でビリヤードに行き、そこで3人になり、予備校で受講しているやつを1人呼び出して、雀荘に行く・・・という毎日を送っていました。(笑)その5〜6人の仲間はみんな早大を受験して落ちてしまいました。受かったのは私だけでしたね。悪いことしたのかなぁ。(笑)大学に入ってからも、柔道の同好会に入って、練習の後には高田馬場の雀荘に通い続けましたね。(笑)
◆大学卒業後に、レンゴー(株)に入社されましたのは?
私は、社会に出たら、商社マンとして海外で仕事をしたかったのですよ。しかし、父親がダンボール製造会社をやっていましたので、ぼくは長男でもあるし、大学まで出してもらった恩返しもしなくてはならないと思いまして、大手のレンゴー(株)に入って業界の修行をしようと思ったわけです。8年間、滋賀・福井・金沢・東京と営業をやってきました。
◆お父様の会社に入社されたときの状況は?
よく経営者の勉強会などで、「わが人生は借金返済の歴史です」と自己紹介をするのですよ。(笑)
私が、和泉興業(株)に入社したときは、会社が倒産寸前だったのです。何しろ、資本金500万円のところ、累積欠損が20倍の1億円ありました。父親に、給料を親爺の分から出してくれといいましたら、「それはできない。会社からもらえ」といわれました。倒産寸前の会社から給料をもらうこともできず、女房が看護婦の資格を持っていたので、働いてもらい、食べさせたもらいながら会社を立て直していきました。(苦笑)
父親が残してくれたものは、お得意先と仕入先です。長年積み重ねた信用がありました。父親を悪く言う人はいませんでしたね。そういう意味では、りっぱな創業者なのです。この借金は10年もかかって返済したものの、今尚会社を立て直しつつあります。
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