【桜井】中学校から東京の自由学園にご入学された動機は?
両親は音楽の教師だったのですが、ピアノにはあまり興味がなくて、小さな頃からドロや木を使っていろいろなモノを作って遊んでいました。
親から自由学園のパンフレットを見せられた時、生徒が畑仕事をしたり、豚を飼ったりしているのを見て面白そうだと思いました。 入学して最初にやったのは自分が使う机と椅子を作ることでした。そして本当に(!?)豚を飼ったり、野菜を作るプログラムがあったのですよ。(笑)授業中に小屋から逃げ出した豚が校庭でくつろいでいるのが見えて 授業を中断して豚を追っかけた事もあります。これはこれで面白かったのですが よく考えてみるとわざわざ東京に行って豚を追いかけなくても高知の田舎で十分できることだったのですよね。(笑)
両親は勉強と音楽に専念させたいという希望を持っていたと思うのですが、入学時に自分の机と椅子を自分で作るという教育の中で モノを作るという気持ちが私の中でさらに広がり、いつのまにかモノ作りと音楽がまざって手作り楽器の世界に入っていきました。
この時の経験が今の取り組みのベースになっているのです。
◆故郷の土佐清水市に戻ろうと思われたのは?
楽器製作やコンサートというとよくバイオリンやクラシックの世界をイメージされます。しかし私のやっていることは、小学校の頃、放課後にやった遊びの延長なのですよ。
貝殻を鳴らすのが上手な友だちに驚愕したり、地面に絵を描いている女の子のお絵描き歌を聞くともなく耳にしたり、割りばしと輪ゴムでセミ撃銃を作った上級生に憧憬の念を抱いたり・・・、子供の時に感じたこんな世界が今のわたしの楽器作りや音楽のベースになっています。だからこの取り組みをやるのは故郷の土佐清水市が一番馴染むように思いました。それで郷里へ帰って教師になる道を選びました。今でもよく子供の頃に遊んだ山や海岸を散歩します。
◆中学校の教師時代の中でのエピソードをお願いします。
受け持った中学校の音楽の授業と音楽クラブの活動に手作り楽器をとりいれました。子どもたちと山にはえている木を集め、大工さんや趣味で木工をやっている人に協力してもらいながら、楽器を作り始めました。なにもわからないまま本を頼りにはじめたので 試行錯誤の連続でした。(苦笑)
例えば ある本に「タイコを作る。」という項目がありまして、そこにはこのように書かれていました。「タイコには動物の皮を張っています。(中略)みんなも工夫して作ってみましょう!」確かにタイコの材料になりそうな動物は町の中を普通に歩いているのですが、ちょっと無理そうだし、ニワトリの皮は既に串焼き用にカットされている。(笑)「それではカットされる前の皮は?」と聞いたら「食べるのはいいけど トリ肌のタイコを叩くと 手にザワッときそう。」と不評でした。(笑)
「それなら魚の皮がいいんじゃないでしょうか?」と言った生徒がいたので、みんなで漁港に行ってマグロの皮をもらってきました。 強さもしなやかさも十分だったので期待度は高かったのですが、そのままでは脂や赤身がついていてネコが寄ってきそうでした。(笑)「皮をなめすといい。革をなめすのはお湯をかけて脂を抜くんだよ。」という子がいたので 熱いお湯をかけたらチリチリッとまるまって美味しそうな匂いがして、料理の下ごしらえみたいになってしまいました。(笑)結局タイコの皮は三味線の先生から古くなった三味線の皮を頂きました。全てがこの調子でしたね。今では懐かしい思い出です。
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