【桜井】家電業の会社から、音響関係の会社を設立された経緯は?
大学受験直前に病気で入院してしまい大学をあきらめ就職することにしました。浪人をさせてもらうほど裕福ではありませんでしたし、苦学してまでもという向学心も有りませんでした。(笑)
私の就職した光洋無線電機(株)は「でんきのコーヨー」の愛称で地方の電気店が仕入れに訪れるほどの旭川市以北では大手の家電販売店でした。高校時代からアマチュア無線をしていましたので電気関係には興味は持っていました。当時、白物家電時代から、テレビ・ステレオといった娯楽関連製品の時代へ移ろうとしていた時期で、配属されたのが本店店舗内のステレオ売場でした。光洋無線も高度成長時代に乗り就職する2年前には札幌に進出しており、翌年から札幌勤務となり3年目には主任になりました。
しかし、4年目の春に、1歳年上の大卒の新入社員が入ってきたのですが、その初任給は私の給与を上回っていたのです。不満でしたね・・。そこで、3年間常にトップクラスの販売成績でしたので、「自分なら出来る・やれる」と思い込み、社長の意見も聞かず退社し同僚3人で会社を作ってしまいました。設立資金100万円の自信満々の船出でした・・。なんでもできるさ!ってね。若かったですね・・(苦笑)
◆草々に解散されて、まったく違う業種の会社にお入りになられましたね。
解散理由は沢山ありました。当時メーカーからの仕入れは個人営業の場合はチェーン店と言われるメーカー専門店しかできません。「でんきのコーヨー」に勤めていたという変な自尊心から「チェーン店」を嫌っていました。企業の歴史とか実績を無視した暴挙に他なりませんでした。(笑)結局友達の電気店から商品を回してもらったり前金での仕入れになったり薄利での商売でした。当然のように半年ほどで立ち行かなくなりました。私は「かんばん」が仕事をさせてくれていたことにようやく気づきました。
仲間の再就職のめどをつけてから、家電業界から足を洗う決意をし、未知の業界を選ぶことにしました。一から勉強して二度と失敗しないようにと・・。
叔父が2年前に惣菜・精肉店から畜産卸売へと業種転換をして、営業担当を募集していましたのでそこに入社しました。
◆せっけんの製造販売をされることに至った経緯は?
牛・豚・羊(マトン)・ブロイラー・親鶏・鴨等の解体加工品を道北各地の精肉店・スーパー・食堂・給食等を対象に中卸売りをしていました。入社当時は高度成時代の波に乗り業績も好調でしたが、入社のときに給与の額も決めずに就職しましたので、初めての給料日に袋の中を覗いて2倍近い60,000円も入っていてびっくりしました。(笑)
「せっけん」づくりは、創業当初から豚の解体作業時に出る脂肪を生ラード等に加工して販売していました。1981年(昭和56年)頃から植物油等を混合し価格と安定した品質の精製ラードが発売され、次第に品質の安定しない生ラードの販売量が激減し余り始めました。
ラードを使っての新商品や利用法はないものかと考えていましたが、たどり着いたのが「せっけん」でした。
1956年の「水俣病」をはじめ公害問題が各地で起こっていました。1977年頃から琵琶湖の赤潮発生などが問題となり、1979年には「琵琶湖富栄養化防止条例」が制定され、合成洗剤の無リン化が進められました。そんな時代背景の中で、1982年春、社長の叔父が終戦後旭川で魚油や鯨油で「せっけん」を作り販売し大変大儲けをしたことがあったようです。後に合成洗剤の普及で倒産してしまいました。その叔父に相談したところ、「魚油や鯨油の比じゃないよ。もっといい石鹸ができるよ。でも売れるかね?」と言いながらも前面協力してくれました。ラードでの「せっけん」試作と平行して他の脂肪や食用廃油での試作も重ねました。
1983年、ようやく自信の持てる「せっけん」(ラード・苛性ソーダ・水)が出来上がり、その名も「ミートの粉せっけん」ビニール袋2kg600円(小売価格)の販売でした。
2年後、「アタック」に変更。このネーミングには苦労しました。調査不足でした。洗剤メーカーの商品を調べたりしたのちに決定し包装資材も仕入れました。販売直後に天下の花王から無リン洗剤「アタック」が発売になり、花王の旭川支店からすぐに内容証明付の警告書が送付されてきました。メーカーは大金を使い他社が使いそうなネーミングを商標登録していたことを始めて知りました。
仕切りなおすことになりましたが、小さな会社ですから2度と失敗は許されない崖っぷちの作業となりました。そこで、経営勉強の仲間の企業にお願いすることにしました。餅屋は餅屋ですね。徹底した調査のあとネーミングとパッケージデザインも提案してくれました。
それが現在販売している粉せっけん「洗濯王」です。
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