【桜井】俳優になるのは小さい頃からの夢でしたか?
僕は松山の生まれで、兄弟二人の長男で、家は製麺業を営んでおりました。もともとあまり体の強くなかった父が、事業に失敗しました。失敗というか、道楽で店を売る羽目になってしまいまして、それからは超貧乏な生活を送りました。
高校進学の時に大学には行かせられないよと母から言われまして、商業高校へ行きました。それでも大学には行きたかったのですが、高校3年の時に父親がガンになりまして、それで僕は就職を決め、ある大手の製薬会社の内定を取りました。そうしたところ父の体調がよくなりました。それでやっぱり大学進学の夢を捨てきれず何とか頼んで予備校に行かせてもらいました。予備校に行っているときに、役者をやらないかとスカウトされたのです。受験勉強のスタートが遅かったので、東京の大学は無理だと思っていましたので、このまま田舎で一生終わるのも嫌だなあ・・・と思って、大学に行かない代わりに東京に行かせてくれと、親に頼んで東京に出ました。
◆23歳で歌手としてデビューされたようですが、上京後の5年間はどうされていたのですか?
役者を目指して、劇団で歌と芝居の勉強を続けながら、ライブハウスでギターの弾き語りで歌ったりもしていました。そんな時にレコードを出そうという話をいただいて、歌手としてデビューすることになりました。その時は本名の「田中正吾」でした。レコードは2枚出しましたね。それまでフォークソングのような曲が好きで歌っていましたが、レコード会社の人から、「君は顔がいいのだから、もっと派手なアイドル系の歌でデビューしろ」と言われまして。(笑)でも僕にはそういう歌手の世界が合わなくて・・・歌手の世界は結構派手で、あまり人を押しのけてという性格ではなかったので、僕には合いませんでしたねえ・・・
◆歌手の世界とお芝居の世界は違いますか?
ええ、違いますねえ。歌手は自分のレコードを一枚でも多く買ってもらうために、レコード店を回ったりして自分自身を売り込んでいかなければなりませんが、芝居はみんなで作り上げていくものですから。派手な性格ではなかったので、自分には役者のほうが合っていたようです。
◆役者としての本格的なデビューは?
1979年です。岩下志麻さんと知遇を得まして、岩下さんが主演されたNHKの 大河ドラマ「草燃える」に出させていただくことになり、芸名をタイトルからいただいて「草間正吾」と改名して、俳優としてデビューすることになりました。その後、映画「悪霊島」やミュージカルの舞台やテレビドラマなどに出演させていただきました。俳優は7〜8年間ほどやっていました。初めは表現することが楽しかったのですが、それが自分にとって意義のあることなのか・・と考えはじめたのが、30代に入った頃でしょうか。
◆俳優から実業家へ転進されたきっかけは?
当時、大手教育関連事業の会社が、街中でコンピュータを置いてアルバイトの検索をするサービスを始めました。それっておもしろいなあっと思っていたら、友人からそのPR活動やイベントがあるので手伝ってほしいという要請がありました。ちょっと暇だったので、じゃあ手伝おうか・・・ということになりました。結局それは軌道に乗らなかったのですが、その友人からとにかく会社を作らないかといわれて、まずはその求人広告の営業をやる仕事をしながら、何をやるか決めようということになりました。
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