「桜井」どのような少年時代を過ごされましたか?
私は長男で下に弟と妹がいます。私は特に祖父母に可愛がられて、小さい頃から生活の中でいろいろは知恵を教えてもらいました。
例えば、天丼やカツ丼を頼むと、たくあんが2切れついてくるでしょう。どうして2切れなのか知っていますか?祖母が良く私に話してくれました。「1切れだと人を切る。3切れだと身を切る。4切れは死に繋がる。5切れだと多すぎる。だから2切れなんだよ」と。こういうことをたくさん教えてもらいました。
父親は会社員ですが、神楽をドイツまで公演に行ったり、棚田100選に選ばれた大東町で事務局をして子どもたちに体験させたり、仲人を数十組やったりと、とても世話好きな人です。私が世話好きというのは、父親譲りなのかも知れません。
◆社会福祉の団体職員から電子部金の会社に入られたのはどうしてですか?
私が高校を卒業した時は、景気が悪く就職難の時代でした。心配した父は勝手に履歴書をいろいろなところに出し、とにかく受けてみろと言いました。私は専門学校に行って、自分の進路を考えようかと思っていたのですが、どうせ落ちるだろうが、まあ受けるだけでも・・・と受けた社会福祉協議会に受かってしまいました。福祉の仕事はやってみるととても新鮮で、相手の人から感謝されるボランティアと仕事が一体しているいい仕事だと感じました。妻は長女で家を継がなければならず、結婚と同時に私が三澤家に養子に入りました。結婚し、仁多町(現 奥出雲町)に移り住むことになり、2年ほど大東町に通っていました。しかし、社会福祉協議会の役割は地元に住んでいる人がやるべきだと考え初めました。仁多町には、既に大きな社会福祉組織があったので、私がわざわざやることでもないと思っていました。では、地域に何が求められているのだろうかと考えました。当時、たくさんあった大手企業の工場が、どんどん撤退し、女性の働く職場が失われていっていました。女性が働くということは、家計を豊かにし、女性が元気になります。その結果、家庭が明るくなります。福祉とは自立のための側面支援です。ではこの地域にとっての福祉とはなんだろうかと思った時に、女性が働ける職場をつくることだと気がつきました。
そんな時に役所に勤めている妻が、まさか自分の旦那が応募するとは思いもせず「広島の電子部品の会社から、地元に立ち上げスタッフがいれば、工場を進出してもいいと役所に打診があったらしいよ」と私に話しました。そこで妻の話を聞いた時「これをやろう!」と決めました。1998年、23歳で社会福祉協議会を退職し、電子部品の会社に入り、半年間広島で勉強しました。
妻の家は硬い家でしたから、この不況の時に団体職員から、なんで好き好んで民間に移るんだと、周りからずいぶんといわれましたが、自分でやると決めたことだと貫き通しました。
◆ お仕事で苦労されたことは?
社長から、「地元で働く人がいれば、工場を出してもいい」といわれ、広島の工場の様子をビデオにとって持ち帰り一軒一軒回って、会社や仕事の説明をして10名集めました。中には今の仕事をやめて来てくれた人もいました。社長から「これで工場をつくれ」と資金を渡されました。町営の歯科医院だった建物を改装して工場をスタートさせました。私にとっての本当の意味での創業はここにあります。その後 従業員も25〜30人にと順調に増えていきました。
ところが2001年、社長から「あなたは、この土地でやりたいといっていたことからすると、これは、会社にとってはピンチだけれど、あなたにとってはチャンスかもしれない。今年の9月末で、系列会社の整理のためこの会社を解散する」と3ヶ月前に、私にだけ話してくれました。製造をすべて見ていた私は、損益が悪くないということをわかっていました。そこで、私が会社をつくり、この工場を引き継ぐ決心をしました。しかし、今ここでみんなに伝えると不安になり、バラバラになってしまう。社長には、会社がなくなるその日まで黙っていてくれるようにお願いしました。
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