【桜井】お生まれは?
沖縄に生まれました。私は警察官の息子で、兄弟は兄と私の二人兄弟です。家庭では暴力的な父で毎日殴られていました。(苦笑)私は小学校三年から、父の暴力から母を守っていました。親父との戦いでしたね。兄貴は僕とは反対で、神経質で細くて頭が良くて努力家でした。僕は、成績は良かったのですが、真面目にこつこつこなすというタイプではないので、先生からよく「兄さんを見習いなさい」と言われていました。でも兄さんと僕は違うと、高校生くらいまでは結構乱暴な生き方をしていました。親父の出世を遅らせたのは私のせいかもしれません。(笑)
◆本土復帰前の沖縄でお育ちになられたのですね。
アメリカの情報しか入ってきませんでしたから、小学校5年生くらいまで、沖縄は、日本全体と同じくらいの大きさだと思っていました。そして、外国はアメリカしかないとも思っていました。5年生くらいになって、いろいろな勉強をすると、日本が沖縄の100倍もあり、その何百倍という世界があると知った時に、なぜこんな小さなところに生まれてしまったのかと、悲しくなって、海を見て泣いていました。大きな世界を知った時に、ショックを受けたことを今でもよく覚えています。
私は沖縄が本土復帰前の高校生でした。当時の沖縄では、アメリカ人は日本人をサルと思っていましたから、恐ろしいまでの差別を味わっています。アメリカ兵が、日本人に対して婦女暴行や殺人を犯しても本国送還で無罪、沖縄の人がアメリカ人女性に対して婦女暴行未遂でも死刑でした。若い頃はアメリカ人にいい人がいるとは思えませんでした。アメリカ人だけには絶対に負けないと敵意むき出しで、2メートルもある彼らとけんかをしたこともあります。敵わないのだけれど意地でも逃げてはいけないと思っていました。ぼこぼこにやられながら、なぜ人間は同じなのにこんなになるんだとずーと思っていました。アメリカ人に勝ちたいという思いで、空手道場に通い始めたのですが、そこに来ているアメリカ人を見てびっくりしました。私が今まで見てきたアメリカ人とは全く違い、沖縄の文化や先生を敬う礼節を持った素晴らしい紳士的な人たちだったのです。そのような人たちとの出会いで、私の反米感情が消えました。
◆高校を卒業してからどうされましたか?
私は、お山の大将で、サラリーマンで生きていける人間ではないとわかっていましたから、経営者になろうと決めていました。その為に、18歳〜29歳まで、30ほどの職業を経験しています。水商売もしましたし、土方もしました。そんな経験の中で、どんな仕事も大変だと実感しています。だからどんな人とも目線を一緒にできるようになりました。人は誰もみな同じです。貴重な経験でした。
30歳には独立しようと決めていましたので、26歳の時に、シャープ電機に入社しました。そこで、企業の形態、上下伝達、組織論などを勉強して29歳に退社、1983年、ビデオ制作の会社、「JAN」を始めました。なぜこの仕事にしたのかというと、喜ぶ人の顔が見たいという気持ちが強かったからです。結婚式や観光などでの撮影が主でしたから、皆さんいい顔されるのですよ。おかげ様で今年、JANは創業25周年、支援活動に取り組む今も、頑張って経営を続けています。ちゃんと稼いで家族を養い、社会生活を送れてこその活動ですから。
◆アジアの子供たちの支援活動を始めるきっかけは?
この活動の原点にあるのは、差別の体験です。平和の尊さ、貧しさの体験は本土の人たちも経験しています。沖縄は、異民族に支配をされ、その中で人を差別することの醜さを知っています。人はみな同じである。途上国の人もみな同じである。沖縄のこの体験こそが、国際協力に適しているのではないかと思っています。 私がこの活動を始めたきっかけは1990年、台湾での売春問題を調べることからでした。多くの台湾先住民族の娘たちが貧しさゆえに売られていました。村々を周り、調査を始めたのがきっかけで、しかし当初は人生をかけてまでやろうという覚悟はありませんでした。「生涯をかける」と決断したのは、フィリピンのゴミ捨て場に暮らしている少女との出会いです。その少女に「あなたの夢はなんですか?」と聞いたところ、彼女は「私の夢は大人になるまで生きること」と答えたのです。この言葉を聞いた時のショックは今でも胸に残っています。 貧しい国の貧しさの問題は、あまりにも深く大きく、私ひとりが何をやったとしても現実は何も変わらないかもしれない。しかし「見てしまった以上は何かをなすべきだ」と決断し、今に至っています。 個人としては、1990年から動いていました。9年くらいはひとりでやっていました。私のところのような小さな会社は、社長の人脈で8割の仕事がくるのです。その仕事が無くなるわけですから、会社を潰すことも覚悟しました。この支援活動は人の命にかかわる仕事ですから、一度かかわったら止めるわけにはいきません。その覚悟をして始めたのです。また、こういう活動は自分のお金で、自分の責任でやるものだと考えていました。当時は募金を一切預かりませんでした。あくまでも自己責任でやっていきたかったのです。しかし、沖縄のマスコミなどで私の活動が取り上げられて、私の考え方や運動が広く伝わっていくことになり、団体にしようという仲間が集まってきたのです。
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