【桜井】ちいさい頃はどんなお子さんでしたか?
荒川区南千住というところで5人兄弟の4番目の次女として生まれました。 東京球場を覚えていますか?球場のあった場所には、大和毛織という軍需工場がありました。そのため戦時中、私の家の前まで強制疎開になりました。戦後、家の前の原っぱは、食糧難の時代の中で畑になったり、わたしたちの絶好の遊び場になったり、夏になると盆踊りの会場になったりしていました。朝鮮戦争が勃発して、鉄が値上がりをすると、ある朝目が覚めると、家の前にどこからか大勢の人たちが集まって、さながら潮干狩り状態で鉄くずをあさっていました。子供ながらにその風景を唖然と見ていたことを記憶しています。小学校から学校の成績は良かったほうです。といいますのは、父の育て方が、「1問でも間違えば、間違った問題だけなら零点だ」というのです。多分それは「うぬぼれてはいけないよ」ということだったと思うのですが、私はその教えにとても忠実でした。結果、よい成績は取れても、何も好きなものが無い、全部こなすけれども「これだ!」というものが何も無い子供でした。その父は、私が中学3年の時に、他界しました。
◆それは大変なことで、高校受験の時期でしたね。
父の突然に死は、確かに悲しかったのですが、父から解放されたという気持ちもありました。父は元軍人で女子供の先頭に立って銃後を守っていましたので、敗戦で自分の思想を変えることができず苦しんでいました。そのため、上のふたりの兄たちは、満足な教育もさせてもらえずに、家族を支えて働いてくれていました。父の死により、その兄たちにもっと世話になることになったわけで、高校時代は、家からは授業料と生活費だけを出してもらい、後はアルバイトで工面していました。叔母の工場の手伝いをしたり、おもちゃ工場で組み立てをしたり、家庭教師もしていました。そのあたりから強くなったのでしょうね。(笑)高校三年の時に、全国家庭クラブ連盟の会長もすることになりました。そういえば、小学校では児童会長、中学校では生徒会長と、やってきましたね。先生から見たらきっと都合のいい子だったのだと思いますよ。
◆卒業後の進路は?
当時は、片親の子供の就職については、学校の大手企業の推薦枠が厳しかったのです。その中で、「三菱石油」という会社は、外資系でそのような条件がありませんでした。入社して配属されたところは、組織人事部というところでした。秘書的な仕事をしていましたが、アメリカの最先端の組織論・人事管理論を取り入れながら、綿密な会社の組織構築を計画していく過程を身近で見せてもらいました。さすが組織の三菱ですね。(笑)
2年後、出産を機に退社しました。夫は中学生向けのウイークリーの英字新聞を発行していたのですが、病気のために廃刊することになり、夫の療養を兼ねて鎌倉に転居しました。私は子供の保育園を探し、1965年、地方公務員上級職を受け、横浜市立文庫小学校事務主事として働くことになりました。夫が姉の会社の支社を埼玉で出すことになり、そこも2年で辞めました。埼玉に移ったのですが、また夫が体調を崩し、今度は本屋をやりたいと言いまして、松戸で本屋を開業し、3店舗までのばしました。しかし、オイルショック後、その経営もうまくいかなくなり、夫婦関の意見のぶつかり合いも増えてきました。
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