横浜にお育ちですか?
生まれも育ちも職場も、すべて横浜市です。私は一人娘で、祖父母、両親にとても大切に育ててもらいました。祖父母は神戸の出身でしたので、祖母はとてもおしゃれで晩年脳梗塞になって片手が不自由になっても、お化粧をかかさない人でした。私が学校から変えると、いつも我が家には祖母のお友だちが大勢来ていて、ビーズ工芸や編み物などを楽しんでいました、祖母はいつもその中心で、輝いていました。そんな祖母の影響もあったのでしょうか、私も大人になったら、祖母のようにいつまでも輝いた女性になりたいと子供心に思っていました。色彩に興味を持ち始めたのはその頃からだったかもしれません。
大学卒業後、横浜そごうに入社して、インポートの有名ブランドでお仕事をさせていただきましたが、おかげで普段接することのできないような方々と商品を通してお話ができる経験もでき、とてもやりがいを感じて働いていました。
でも、私のその頃の夢は、「結婚していい奥さんになること」だったのです。1995年結婚退社をして、子どもができ、主婦業に子育てにと日々過ごしていました。しかし、夢と現実は違いました。いい奥さんにならなければ、いいお母さんにならなければ・・・と自分で自分をがんじがらめにして、自分が自分でなくなっていくような孤独感と閉塞感に苛まれました。私自身が大人になりきれていなかったのだと思います。
◆ 主婦になると、だれでも感じる閉塞感ですね。それでどうなさいましたか?
何かを始めなければ、と思いました。いつものように公園へ出かけたときにあることに気づきました。それは公園に来るお母さんたちが、みな地味な色の服をまとっていたことです。もしかしたら、私と同じような思いをしているのではないだろうかと思いました。尾母親の選ぶ色が、子どもの心に大きな影響を与えているとしたら・・・。「そうだ、子どもに誇れるような自分になる為に、仕事をしていた時から興味のあった色彩の勉強をしよう」と思いたち、息子が幼稚園にあがると同時に始めましました。
そんな時に、最愛の父が肺がんで、余命2ヶ月と診断されました。
◆それはお辛かったでしょうね。
長年勤め上げた会社を定年退職し、これから第二の人生をと思っていた矢先でした。私は父の看病で毎日病院に通いました。その中で色が持っている力に気づいたことがありました。私が黒っぽい服を着ている時は何かと反発していた父でしたが、柔らかい色の服を着ているときはとても素直でした。色の持つパワーを強く感じました。人は情報量の8割は視覚から受け取っているとされています。確かに着ている服の色が影響するんだと思いました。そこで、放射線治療や抗がん剤治療でやせていく父を元気づける為に、淡いピンクのシャツなどをプレゼントしました。父には、そんな格好でお見舞いに来るかと言われたりもしましたが、お見舞いに行く時には、白よりもクリーム色や薄いオレンジ色の服を身につけるようにもしました。このような気遣いが功を奏したのでしょうか、余命2ヶ月と宣告されてから半年後に天国へ旅立ちました。
◆カラーコーディネーターの勉強は大変ではありませんでしたか?
私は、もともとお洋服からスタートしたので、文部科学省認定ファッションコーディネート色彩能力検定(AFT全国服飾教育者連合会)一級の資格を取りました。この資格を取るため、私のそれまでの人生で一番勉強をした時期でした。主婦や子育てをしていると、まとまった時間をとることが難しいので、子どもが習い事をしている時の待ち時間を使って覚えたり、隙間時間を見つけては必死に覚えていきました。勉強していくことがとにかく楽しくて仕方がありませんでした。
その後、センセーションカラーセラピーの資格も取りました。その後も、服飾と関連したカラー診断が深められるようにと、ジュエリーコーディネーター、フレグランスコーディネーターの資格も取りました。また、インテリア方面の知識もプラスしたいと思い、社団法人日本照明学会認定 照明コンサルタントの資格も取りました。
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