【桜井】 世良さんが事業にかかわることになったいきさつはどんなことですか?
1959 年に父が、翌年には祖父が相次いで亡くなり、形だけの社長として祖母が代表取締役を務め、母は常務取締役として経理担当をやり会社は存続しておりました。また、専務として祖母の弟が急遽東京から呼ばれ、高度成長の波にも乗り、トップのいない企業ながらも社員の頑張りで成長していきました。金型業界では老舗でもあり、世良製作所から独立して金型屋を始めた方も多く、「世良」出身と言うだけで信用してもらえるくらいでした。
金型業界は男業界でして、その中で母が苦労していたのも見ていましたから、私は次女であるという逃げ道も相まって 1974 年に結婚と言う形で家を出て、二人の子供を生み育てていました。しかし、母が 1977 年 9 月に交通事故で急逝しました。そのショックから 85 歳になる祖母が今でいう「認知症」になり、会社は完全に他人任せとなってしました。株は私と姉とで過半数は持ってはいたのですが、代表取締役は従業員からのたたき上げの方にお願いしていました。祖母は高齢と言うこともあり翌年の 1978 年 12 月に他界致しました。その時から、世良製作所から独立していった方々からの熱いラブコールがあり常勤役員となって会社に出ることになったのです。
その代表取締役が1994 年心筋梗塞で 46 歳という若さで他界してしました。その葬儀の場で古くからのお得意先様の社長さんから「信ちゃん、もう、逃げられへんで〜!」と言われて腹をくくりました。しかし、代表取締役になったものの、ウオーミングアップ無しでマウンドに立ったピッチャーみたいなもので、「暴投はするわ!」「ボールは届かないわ!」で本当に苦労しました。(笑)
当時、経営のノウハウを教えてくれる人は誰もいませんでした。くたくたになって家に帰って玄関先でばたっと倒れてそのまま寝てしまったり、帰りの車の中でワンワン泣いたりもしました。子供達にもいっぱい迷惑をかけました。家族に食事の用意もして上げられず、子供たちにお弁当も持たせてなくて、ほとんどコンビニでパンを買ってもらっていました。晩御飯と言えば吉野家の牛丼やほか弁ばかりでしたね、母親失格ですよ。(苦笑)
◆ たいへんなご経験を重ねていらっしゃったのですね。当時の、会社の経営状態はいかがでしたか?
私が入社した時は、バブルが崩壊した直後( 1990 年 11 月)で、前任の社長の時代は 3 期連続赤字というかなり厳しい状況にありました。遅くまで忙しく仕事をしても、利益がでないという理由で昇給もほとんどなく、労働環境も悪くて、良い人材もどんどん退職していってしまう状況でした。
1994年当時、前任の社長が亡くなる前に岐阜にある未来工業(株)さんとのM&Aの話を進めており、私が代表取締役になった時点で全株の譲渡を行いました。株は全面的に譲渡したものの、経営陣や経営形態はそのままで存続し、 10 年間、私が代表取締役として経営をしてきました。その間、前任の社長が出した累積赤字を払拭し、一度も赤字を出さなかったのが自慢です。ところが、 10 年目に未来工業さんは世良製作所の株を今のオーナーである群馬の(株)浅野さんに転売してしまったのです。
平成 6 年の未来工業さんに株式譲渡したときは経営状態が悪かった為、自分達(姉と私)ではもう立て直すことは出来ないのではないかと思い、従業員の幸せを考えた末、安定した企業にバックアップしてもらえれば何とか立ち直れるという考えで M & A を進めました。そして 10 年間やってきて「やれる!」と自分でも思った矢先に(株)浅野さんへ転売されたと聞き、急ぎ未来工業さんに直談判に行きました。しかし、未来工業さんは「名証二部上場」の企業さんでしたから日経に発表してしまっていて、もうどうしようもなかったのです。
◆ それで、世良さんの役職名が、株式会社浅野 樹脂事業部SERA 取締役会長ということなのですね。歴史ある世良製作所のお名前が消えることはとてもつらいことであったと思います。
(株)浅野さんが株主さんになり、 1 年間は世良製作所の名前のままで運営していたのですが、 2 年目から(株)浅野になってしまった時には、仏壇の祖父、祖母、父、母に涙を流しながら「ごめんなさい」と謝りました。世の中から世良製作所の名前が消えると言うのは本当に悔しかったです。合併先の(株)浅野の社長が私の後の代表取締役に就任し、私は代表権のない会長職となりました。私は従業員総勢 352 名、群馬に本社工場があり、静岡に工場のある(株)浅野の会長になりました。合併によって社名が(株)浅野になりましたが、世良製作所は従業員や業務形態は変わらず、プラスチック金型を主としているので樹脂事業部なりました。ただし SERA の名前は業界では一流なので、付けたしみたいですが SERA の名前を残したというわけです。群馬の本社はプレス金型を主としているので金属事業部となっています。
日本での吸収合併のイメージはというと、潰れかけた会社がどこかに助けてもらうという感じなので私は嫌なのです。だって、世良製作所は助けてもらわなくても十分黒字経営で 10 年間もやってきたし、銀行さんからも厚い信頼を戴いてたのですから・・・
そんな時、京都の中小企業家同友会という経営の勉強をする会の仲間が言ってくれました。「買うだけの価値のある会社やったから売れたんやろ!」ってね。
世良製作所の株をすべて手放してしまった弱みで仕方なかったのですが、せめて転売の時にひとこと声をかけて欲しかったと今でも悔やまれます。私の人生っていろいろな事に翻弄されているけれど、私のラジオ番組のタイトルじゃないけれど「人生ケ・セラ・セラ」なるようになる〜♪ってやっと今は思えるようになりました。(笑)
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