【桜井】客室乗務員になることを、目指していたのですか?
いいえ、3歳のころからピアノを習っていて、「将来はピアニスト」になることを夢みて毎日レッスンに励んでいたのですよ。
でも、6歳下の妹にはその才能があったのに気づき、私にはクラシックピアノはちょっと無理だと気づいて、ポピュラー音楽や映画音楽をやりたいと思って、叔母のいるアメリカのカリフォルニアに留学をしました。
ところが、19歳の時、母がガンになり、急遽帰国することに。帰国後は、母の看病と家事に明け暮れました。日に日に病状が悪化する中で、母は、中学生になった妹と日本に戻って中途半端な立場にいる私をとても心配していました。そんなある日、「美雪は少しは英語ができるから、スチュワーデスはどう?」と言われたのですが、当時私は、「スチュワーデスって、空を飛ぶウエイトレス」という認識しかなくて、聞く耳を持ちませんでした。
しかし、母の死後、遺品の中に日本航空の国際線客室乗務員の書いた「カスピ海からのおくり物」という本を見つけました。その本を読んで、スチュワーデスの仕事がただのサービス業ではなく、人命を預かる保安要員としての責任ある仕事だということ。そして、いろいろな国に行って素晴らしい出会いがあって・・スチュワーデスの仕事に興味を持ったのです。母が亡くなったのが6月で9月には日本航空の中途採用の募集があり、とんとん拍子に採用が決まりました。
母が亡くなって半年後に国際線客室乗務員として採用されたのです。
当時は、専門訓練だけでも6ヶ月そのほか地上研修で空港でのチェックインカウンターなど客室以外の仕事の研修もありました。それがその後の仕事に大変役立っています。それから4年間はあっという間でした。ファーストクラス要員として、皇室フライトや各国の賓客を接遇する経験もさせていただきました。
◆研修の内容とは?
当時の日本航空は、半官半民で日の丸を背負って空を飛んでいたわけで、日本の航空会社の国際線の定期便は当時日本航空だけの時代でした。
専門訓練は、非常時の安全訓練、英語はもちろんのことフランス料理のフルコースのマナーからワインやお酒の知識、カクテルの作り方、茶道や着物の着付などありとあらゆることを学ぶ機会をいただきました。茶道を学ぶことにより日本人の心やホスピタリティマインドなどを身につけることが必要だったのです。
入社した頃は、ヨーロッパへのフライトはまだ直行便が無い時代で、1往復に20日間もかかる南周りの乗務パターンや10日間のパターンのアンカレッジ経由の北周りなどがありました。フライト先のステイも2〜3日ありとても優雅な時代でした。(笑)私は背が低く着物が似合うせいか、よく着物デユーティーでファーストクラスのキャビンを担当していました。あの狭いトイレで着物に着替えるのも慣れてくると15分もあればできるようになりました。長いフライトの映画の後に着物に着替えてキャビンをまわるのです。今では考えられないですね。(笑)昔はスチュワーデス・スチュワードと言っていましたが、今では客室乗務員、フライトアテンダント、またはキャビンアテンダントキャビンクルーと言っています。
◆4年でお辞めになられたのですね。
結婚しても出産しても仕事を続けられる時代にはなっていましたが、母も亡くしていた私は出産しても勤められる環境ではありませんでした。子どももいとおしくて、何日も留守をすることはできないので退職することにしました。でも、社会と関わりたい、仕事をしたいという気持ちはずっとあったので、子どもが一歳半になったころ、日本スチュワーデス学院から講師を話をいただき仕事を再開。
また、1985年のつくば博覧会のコンパニオンの教育のマニュアル作成やIBM情報科学館のアテンダントの研修講師など少しずつ仕事をしていました。その後、主人の転勤でアメリカやヨーロッパに約6年間滞在することになりました。
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