【桜井】小学校が蛯沢小学校とありますが、蛯沢姓は青森県に多いのですか?東北町とはどういうところでしょうか?
父親の生家が東北町内蛯沢、部落の入り口に澤があり、澤エビが居た言い伝えがありました。私も子供の頃は澤でエビ取りをして遊んでいましたね。懐かしいなあ!
私が子供の頃には、この内蛯沢は100軒余りの部落で、殆どが蛯沢姓でした。東北町の一次産業は農業で、全国でも有数のニンニク、長いも、大根、牛蒡の生産地です。又、酪農も盛んで、都会から来た人は広大な牧草地を見て「ワー、スイスみたい!」と感動されていますよ。(笑)さらに、小川原湖は宝沼と云われ、白魚、シジミ、天然うなぎなど魚貝類が豊富に取れます。中でも漁師の浜料理のガニ汁(カニを甲羅ごと潰した鍋)は絶品です。また、温泉も豊富で、自然豊かなところです。食べ物もおいしくて、冬はジャッパ汁(タラのあら汁)と熱燗が美味いし、今は、健康に良いと云われている、地元産のヤーコン焼酎をお湯割で飲むのが一番だでばな!(笑)
◆小さい頃はどんなお子さんでしたか?
とにかくワンパク坊主でした。ビー玉、メンコは先輩たちと良く遊んでしました。小学校2〜4年生の時は、担任から可愛がられて、勉強も頑張りましたが、相変わらずのいたずら放題のワンパク坊主で、母親からは毎日叱られてばかりでした。(笑)
父は三沢米軍に勤務、母は農家をやりながら、父母とも働き攻めだったので、夕飯仕度は私の役割でした。炒め物なんか得意でしたよ。今でも時折、お任せ料理を作ることがあります。
◆高校時代にとても大変な体験をされたようですが?
中学の時から、本当に手をつけられない悪(ワル)でした。高校に入りエレキバンドを結成してダンスホールでの演奏や酒、タバコなど、遊び呆けていました。そんな中で、ある傷害事件で仲間が大量処分になる事が分かり、仲間を庇って退学処分になりました。そこで、不良仲間とテキヤ稼業に入り、祭りで金魚売りをしていた時に、突然母が乗り込んで来て拉致され、家に監禁されました。「母は強し!」とこの時、痛烈に思いました。どんな悪がきでも、自分の子供は救って守る、母のこの信念を感じた時が、一つ目の私の人生のターニングポイントでした。
この拉致が無ければ、今の私が無い! 母の偉大さに感謝しております。その後、数校の転入試験を受けながら、ようやく、近くの高校を卒業しております。
◆古川市勤労青少年ホーム「友和館」の自治会長で、どんな活動をされたのでしょうか?
古川市の電気工事会社に就職した半年後に、新築「友和館」に各種講座が出来たので、今までの自分は「乱の人生」であり、これからはまったく別世界に挑戦としてみたいと「静の世界の茶道」に入門しました。合せて華道、書道も受講、その後、ドライブクラブを作り、1年目に自治会を結成し文化部長に就任、2年目に会長に就任して、宮城県ホーム大会、市長懇談会や第1回古川市青年祭など、たくさんの楽しみを企画いたしました。青春時代の古川で、仕事、仲間、高い志、そして妻、節子と出逢えたのが人生の糧となっています。
おのろけになりましたね。(笑)
◆卒業後、電気工事の会社に入られたのですね。その後どうして上京することになったのでしょうか?
高校在学中に兄と家電店を創業して、私が電気工事を覚える事にしました、19歳から3年間、古川市で修行をする約束でしたが、もっと上の資格と技術を学びたいと上京、夜間学校に通いながら資格取得しました。この間の辛く苦しい体験の中で人生スローガンを作りました。「やるぞ見ていろ、この俺だって!」と自分に活を入れて頑張りました。
東京ではがむしゃらに仕事に打ち込んでいましたが、結婚して、長女が2歳の時、喘息にかかりました。次の子がお腹に入っている事もあり、私も跡取りなので、いずれ帰らなければと自覚していたので、思い切って、長男が生まれる前に帰郷しました。青森に戻ると、親友から「せっかくいい技術を持っているから、開業をしたら応援するよ」と言われ、1979年2月8日に電気工事業登録をして、勝電気工業を開業し、お蔭様で満30年となります。
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