【桜井】 創業 87 年の歴史をお持ちですが、事業継承のお気持ちはいつごろからですか?
1919 年に祖父が 25 歳くらいの時に、電線類の製造を開始しました。当時ではベンチャー企業だったと思いますよ。その祖父が 50 代を前に亡くなり、大学を出たばかりの父が社長を受け継ぎました。その父も 49 歳でこの世を去りました。私が高校生の時です。叔父が後を継いでくれましたが、私は大学を出るとすぐに入社しました。周りから言われていたこともあって、小学生の頃から父の後を継ぐものだと漠然とは思っていました。
◆ 学生時代に熱中したものは?
高校大学と、体育会のアーチェリー部に入っていました。戦績はというと、私が大学で部に在籍していた時は、団体戦の関東大会 2 位が最高でしたが、前後の年代は全国制覇を成し遂げました。私たちの世代にはスター選手がいなかったので、それが全国制覇できなかった原因かな。今思うと、ですね。(笑)
体育会系というのは、不条理なものもそのまま受け入れなければならないところがありまして、黒いものでも、先輩が「白」といえば白になるみたいな・・・そういう不条理への反発をばねにして、自分で考える力ができ、仲間との絆も生まれました。目標を持つことの大切さも学びましたね。今でも、当時合宿していた長野県野辺山に毎年仲間と遊びに行きます。今はアーチェリーではなくて、ゴルフをしたり、飲んで語り合ったりしています。(笑)
◆ 入社後は、取り組んだことは?
入社後、コンパウンドをトラックから倉庫に運ぶ資材部の仕事を 7 年間やっていました。私が入る前もその後 7 年間も誰ひとり採用がなかったのです。これはいけないと思いました。計画的に採用することを考えなければと思っていた矢先に、東京中小企業家同友会というところで、共同求人活動をしていると友人から聞き、早速入会しました。業種的に新規採用はなかなか難しかったですね。ある時、「リチャンス」という中途採用者の求人活動を大田区・品川区の経営者が自分たちで企画しました。
そこで、車の部品製造会社の生産管理をやっていた人物と出会いました。その人は、今は当社の取締役として、複数の工場長も兼務してくれています。彼が入社してびっくりしたのは、「社員がのんびりとしているのにかかわらず、収益がきちんと出ている。会議が一つもない。」考えられなかったようです。(笑)
新しい人が入ったので、私は営業の仕事に回りました。電線の営業は楽しかったですよ。大手企業さんのところに行くと「何も知らないでよく来たね」と言われたりもしましたが。(苦笑)それまでは、放送設備用ケーブルが主だったのですが、コンピューターケーブルの分野のニーズを感じ取りました。特に先見の明があるわけではなく、お客様のところに行くと、新しいニーズに気づくのです。初期の段階で気づくことが大事です。営業は新しい情報を得るセンサーになることだと考えています。だから伸びる分野に飛び込むことですね。コンピューターケーブルの端末加工のために、ロボットを 5 台購入しました。思い切って 5 台も導入したのは画期的だったようです。
仕事はどんどん増えて、 24 時間フル稼働、機械を止めないために工場の人員配置に苦労をしながら、みんなで徹夜の日々が続きました。 1990 年代のことです。面白かったですよ。みんなよく頑張りました。(笑)
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