「桜井」北海道ではどのような少年時代を過ごされましたか?
1969年、北海道の留萌市に生まれました。生まれてすぐに旭川に移り、大学浪人時代まで住んでいました。父の仕事は、林業の現場の作業員で、北海道の山々に登ってチェーンソーを持って木を切る仕事をしていました。ですから父は留守がちでしたから、母が家庭を切り盛りしていました。兄弟は妹がひとりいます。
私は小学生のころは、家で本を読んだりゲームをいたりするのが好きで、ひょろっとした、日影のもやしみたいな男の子でした。口の悪いおばさんから「あんたガイコツみたいだね」といわれて、ガーン!とショックを受けたことを覚えています。(笑)中学生になった頃からサッカーを始め、体力もつき自分に自信もできて、性格がガラッと外交的になりました。サッカーも大好きだったのですが、上手い友達にコンプレックスを持ったこともありました。そんなときの解消法は、野球カード集めとか、フィギュアー集めとか、男の子が集めるものをずいぶんとしましたね。
◆北海道からどうして高崎の大学へ進学されたのですか?
高校2年の時に、父が大怪我をして、会社を辞めました。経済的なこともあり、大学受験は、国立小樽商科大学のみを受け、ものの見事に落ちました。一年間宅浪をして、高崎経済大学に入学しました。浪人中は、バイトに明け暮れました。当時の旭川での一番高いバイトは、セブンイレブンの深夜のバイトで、時給550円でした。1987年ころのことです。冬が半年もある北海道に生まれると、交通の利便性の悪さもあり、札幌さえも遠く感じていました。必然的に地元志向が強くなるのでしょうね。私も北海道を出る気持ちはありませんでした。
◆ではどうして高崎の大学を受けたのですか?
当時、国公立の受験は、ABCグループに分かれていて、Aグループを受けた場合は、Bグループは受けられず、Bグループを受けた場合は、Cグループは受験できませんでした。CグループのみがA・Bと一緒に受けることができました。そのCグループの中に、高崎経済大学がありました。経済の勉強をして見たいという気持ちもあったので、思い切って受験しました。東京に近いので、物価が高いのではないかと心配しましたが、ちょうど、バブルの真っ最中でもあり、普通のバイトが時給1000円もしていて、びっくりしました。逆に下宿は家賃が9000円、四畳半一間でしたが、10人ほどいる学生とすぐ友達になり、お酒を飲んだり、楽しい学生生活を送りました。大学では剣道部に入りましたが、そこでも先輩たちに大変かわいがってもらいました。剣道部での繋がりは充実していました。
◆ダブリン市立大学に留学されたのは?
私は大学4年生で、(株)フジタという建設会社への就職の内定も取れていました。もともと英語が好きだったので、卒業までに留学でもしたいなあと考えていたところ、剣道部の友達から、大学の掲示板を見るようにといわれました。その掲示板には、ダブリン市立大学留学生募集のポスターが貼ってありました。
ダブリン市立大学(DCU)は、アイルランドにあります。DCUは、1975年に設立された大学で、1992年高崎経済大学との交換留学が始まり、私は第1期生として、10〜12月の3ヶ月間、4人の2年生と一緒に留学しました。短い期間でしたが、とても充実していて、ある意味では、人生の転機になりました。
私にとっては、初めての海外旅行で、初めての朝、目覚めた時のホームステイの家の部屋の窓から見た景色は今でも忘れられません。
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