「桜井」どのような少年時代を過ごされましたか?
父親は建築板金という仕事を自営でやっていました。その親父は酒乱で、私が小学生の頃、酔っぱらってはおふくろを殴るけるの状態で、母は近所の家にかくまってもらい、私が朝雨戸を開けて母を家に入れてあげるという毎日でした。飲んだくれて、ろくに働かないので、私の家は、ものすごく貧乏でした。親父の暴力から逃げて、母と私、そして妹2人は、転々と家を替えました。母は私たちを育てる為に、朝は新聞配達、昼はヤクルトの配達と仕事を掛け持ちで頑張ってくれました。私も小学校の時には母の新聞配達の仕事を手伝い、中3からはずっとスーパーでバイトをして、一浪して中央大学に入りました。大学時代は、学生企業をやって、学費も自分で稼ぎ出しました。自分の人生は自分で切り開けと良く社員に言っていますが、その言葉は私自身の体験からきたものです。
そんな親父でしたが、唯一感謝していることがあります。それは、飲んだくれたとき、「どんなことでもいい、仕事でもスポーツでもなんでもいいから、とにかく日本一になれ」と最後にはいつも、言っていました。今でも私の心に響いている言葉です。
おふくろを苦しめ続けた親父は6年前他界しましたが、その親父を私は最後まで許すことはできませんでした。でも、そのことについては、今では後悔しています。「親孝行したいときには親はなし」といいますが、本当にそうですね。
最近、大学生向けセミナーで講演をした時に、「どうしてそんなに自信を持って生きられるのですか?」と聞かれることがありました。「自信」は「前を向いて生きる」中で育まれるのです。私の場合は、常に崖っぷちの人生でしたから、後ろに下がることができません。ですから前に進むしか術が無かったのです。「退路を断つ」ことによって、前を向いて生きていかざるを得ないので、結果的に成長という成功体験が得られ、自信があるように見えるのです。
◆大学を卒業されてからは?
大学を卒業後、東京キー局のテレビ局に入社しました。当時新規事業であった文字放送部に自分から手を上げました。今までの経験で人と違ったことをするということが身についていたようです。十数人の営業がいましたが、私ひとりで、その部の半分くらいを売り上げていました。社長表彰を何度ももらいました。しかし、大企業のヒエラルキーが私には合わないと感じ、3年で退職しました。きっかけは、あるコンテ会社の社長から、役員としてこないかと誘われたことです。ところが、その会社に入ってみると、とんでもない社長で、自分はベンツ5台を乗り回しているくせに、社員たちには、安い賃金で週5日徹夜という過酷な仕事をさせていました。半年ほどたってどうにも我慢ができず、20数名いた社員の人たちに、みんなで独立しようと動議を出し、社長の片腕の制作部長の家に集まって話し合いました。みな賛成して、決をとることになったのですが、最後にその制作部長一人が、社長には恩があるから残るといったことから、みな反対に回ってしまいました。そこで、不本意ながらやむなく、私は責任を取って独立することになりました。
◆準備万端での起業ではなかったのですね?
1991年、有限会社を立ち上げ、私と同時期に入社しそして退職することになった新卒社員2人と、新たに採用した美大出身者たちの7名でスタートしました。貯金など無く、あるのは車のローンという借金だけでした。しかし、仕事には自信がありました。あったのはそれだけです。
お金には本当に苦労をしました。その当時も貧乏だったろくでもない親父にも、保証人になってくれと、頭を下げにも行きましたし、友達にも5万円、10万円と借金をしてまわりました。とにかく必死でした。
高利貸に騙されたり、クレジットカード詐欺にあったこともありました。
創業後、3ヶ月くらいたって、資金繰りでにっちもさっちもいかなくなり、テレビ局時代から自己啓発セミナーがきっかけでお付き合いのあった造園業を営む社長さんに、300万円の借金をお願いしました。八王子の大きな喫茶店でした。私が借金をお願いすると、その社長は「今の原田君は乞食と同じだ。そんな人間にカネを貸すバカがどこにいる!」といって席を立ちました。私はあわてて、人目もはばからず土下座をして「5万でも10万でもかまいません。貸してください」とすがりました。その社長は黙って座り、懐から300万円を取り出し僕に差し出しました。初めから貸してくれるつもりできてくれたのです。私を試されたのですね。その社長には、心から感謝をしています。その後半年くらいで返済をすることができましたが、いまでも大切はお付き合いをさせていただいています。その社長のアドバイスで、社員全員を役員にして、会社への責任という意味で、5千円、1万円・・・とできる範囲でお金を出してもらいました。26歳の時の話です。
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