【桜井】ちいさい頃はどんなお子さんでしたか?
二歳上の兄を北朝鮮からの引き揚げで亡くした後に生まれた子どもだったから親戚含めて大切に育てられましたね。父は、三井鉱山の職員で、暮らしに困ることなく、普通に伸びやかに育ったと思います。ただ、父が肺結核で長期療養したこともあり、小学生時代に小児結核をわずらったこともあり、体は丈夫ではなく、痩せッポでした。今、90キロ近い巨体?ですから、信じられませんよね(笑)
性格は、一人っ子っていうこともあって内向的で繊細な部分もありましたが、その反面、小中を通して、学級委員長を通すという外交的な部分もあって、今の映像づくりに必要な資質は備わっていたような気がします。
◆映像作家を仕事として選ばれたのは?
実は、大変な音楽少年で、中学3年生から高校時代、ブラスバンドに狂っておりました。端では、音楽大学に行くものだと思っていたようです。ただ、音楽に熱中していただけに、自分の音楽的才能の限界というのもみえてくるんですよ。私は、生意気にも指揮を担当してましてね、いえ、ただの棒振りでしたが(笑)。
ある練習のとき、演奏が終わって、ふむふむまあまあかなって思っていると、一級上の先輩が言うんです。中音部でリズムを刻んだりするアルトというパートでした。「港。俺、半音上げて吹いたけど分かったか?」立ち往生する私。決定的でしたね。それで、早稲田の文学部に入って新聞記者になりたいと思っていたのですが、いつしか、映画狂になってしまって。
当時池袋にあった人生座や文芸座、新宿のアート・シアターなんかに入り浸っていました。音楽の夢が潰えた補償行為だったのかもしれませんが、勤勉な勉強家ではない私は、映画の世界に、なんか、野放図な魅力を感じたのかもしれませんね。これは、後の話しとも繋がるのですが、私が小学6年生から中学1年にかけて体験した三井三池争議をいつの日か、映画にしたいという想いとも重なっていました。
◆港さんの作品で貫かれている思いは?
企業のPR映画や建設記録映画、採用ビデオ、テレビ・ドキュメント番組など沢山作ってきましたが、まず、撮影対象に惚れ込み、その代弁者になろうということでしたね。
で、私は、ポジティブシンキングの人ですから、「見てもらったら元気になる」って作品でありたいと思ってきました。それと、スポンサーがいる映像ではなかなか難しいことではありましたが、私が尊敬する 故・山本薩夫監督の次の言葉を座右の銘にしてきました。
「映画は真実を伝える眼であり、政治や社会を批判し、本当に大衆の幸福を願うものでありたい」
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