「桜井」金子さんは戦争を体験されていらっしゃるのですね。
東京に生まれ育ったのですが、戦争で八王子に疎開し両親はそこでやけだされましたが、その前に私と妹は福島の親戚に預けられました。親元を離れて姉妹で知らない土地に疎開した時は、妹と一緒に何とか頑張らなくちゃという感じでした。小学校6年生の時に終戦を迎えました。家が焼けてなくなっていましたので、東京に入ることができず、父の伝で町田市の玉川学園中学に入学し寄宿舎に入りました。入学して1ヵ月後、食糧難で寄宿舎が突然閉鎖され親元に戻されました。身の回りのものを全て背負って、両親のいた千葉県柏市に松戸までの切符で帰りました。何しろ列車区間の切符はすぐには買えなない時代でしたから。列車も混んでいたので、駅に着いても線路と反対側に窓から飛び降りましたよ。子どもながらにどうすればいいのかいろいろ考えますね。長女でしたから、空襲のときも母を助けてしっかりしなくてはという様々な戦争体験は、私を逞しくしてくれました。
それからは、柏から玉川学園まで1週間に2日ほど通うことになりました。何しろ当時は小田急も電車が30分に1本、片道だけでも2時間半もかかり、通学は貨車でした。そんな状況でしたので、1学期は学校へは毎日は通えませんでした。
その後、新宿百人町の戦災者住宅に空きができたので、そこに入居し、大学2年くらいまで住んでしました。
◆大学では英文学を専攻されていますが、それはどうしてですか?
父が英文科出身で戦前も英語を使っていろいろは仕事にも関わっていましたので、日本語だけではなく、当時は英語はできるほうがいいと思ったわけです。父は、戦後、駐留軍の民間情報局の本業の傍ら、映画やラジオドラマの台本を書いたりしており、NHKなどにラジオ番組の作り方の指導などもしていました。そんな事から当時も就職難でしたが、早稲田大学英文科を卒業し、昭和30年にNHKに一般事務職で入局しました。当初、人事課に配属されましたが、NHKに入ったという事は放送番組にかかわる仕事するつもりでしたので、転属を願い出て、翌年テレビジョン局映画部へ異動になりました。NHKのテレビ放送が始まったのが昭和28年、翌年から民間テレビ局が始まりました。私の仕事は海外から入ってくるニュース・フィルムの編集をしたり、資料の翻訳をして原稿を書いたりすることでした。しかし海外からのニュース・フィルムは数日経ったもので、もっと生のニュースを取材したいという思いが強くなって、直接自分でカメラを持って街に出て取材の仕事をしたいと思いました。
◆どのようにしてその思いを実現させていったのでしょうか?
人手不足でしたから、「じゃ、私がライトマンをやります!」と職務は違っても手伝って、自分の仕事の合間に取材に同行させてもらい、ライト持ち、使い走りと何でもやりました。しかし当時はニュース映画の世界には女性のカメラマンはまだいない時代でした。私がカメラマンとして認めてもらえるチャンスとなったのは、昭和33年にアジアスポーツ大会が日本で開催されることになり、女子選手村には女性しか入れないので、上司に私に取材をさせて欲しいと願い出ました。他局には女性カメラマンがいませんでしたから、私が女性カメラマン第一号となりました。
また、その秋、皇太子妃になられた美智子様のご婚約内定発表特集の中で放送された、ご自宅でピアノを弾かれるお姿をカメラに収めるという貴重な機会を得たことも大きなきっかけでした。このフィルムは、「美智子様のアルバム」という番組で放送され、NHKだけがムービーでのご自宅中での映像を流すことができました。これをきっかけに6年後に東京オリンピックも控えており、私に正式にカメラマンをやらせてみるかとうことになりました。正式にカメララマンになったのは昭和34年のことです。その後、街ネタ取材の遊軍カメラマンとして、街に出て取材をしたり、昭和39年のオリンピック東京大会の時には、2ヶ月以上専ら選手村の取材を担当し、カメラマンは約10年間やりました。
◆その後のお仕事は?
先ほどもいいましたように、当時はテレビニュースの世界には女性のカメラマンはまだいない時代でした。深夜勤務はアナウンサーなどの専門職に限られていて、取材職には深夜勤務は駄目で、デスクも使いにくかったでしょうね。当時は今のような女性が時間を気にせず思う存分働ける時代ではなかったので、カメラマンとして限界がありました。そこで、広報室に異動になり、英語の力を生かして海外向けパンフレットやニュースレターの発行、社内報の編集、研修の企画・立案・実施の仕事などをしました。総務局では、NHKの受付の女性の管理の仕事も担当し、昭和63年に定年退職しました。
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