江島さんは京都のお生まれではなく、広島でしたか。
母の実家は広島市にありました。母は14歳の時に被爆しました。母の父は原爆で亡くなり、母の祖母は今だに遺骨が見つかりません。母の母は子どもを背負っていた時に被爆し、その子どもは亡くなり、祖母自身は背中に大やけどを負いました。母は建物の中にいたので、爆風で顔に硝子の破片が刺さったそうです。
広島の人は皆同じような体験をしていたので、私が小さい頃はそれが大変なことだと思うより、それがそこに存在していたという意識しかありませんでした。母もまだ言っても分からないだろうと、被爆体験の話をしませんでしたが、祖母からは一緒にお風呂に入る時などによく話を聞きました。中学生の時に始めて原爆資料館に行った時に、どういうことが実際に起こったのかという全体像が理解できて、気分が悪くなるくらいの衝撃を受けました。
結婚して広島を離れ子どもを持った時、広島出身者としてまた被爆2世として当時の実情を知っておかなくてはならないと、母から積極的に話を聞くようになりました。
お父様は?
父は広島市の人ではなく、戦地で終戦を迎えました。復員後は警察官になりました。昔から写真が好きで、その好きが高じて、40歳で退職しDPEの店を始めました。私が10歳の時でした。父は商売人の素養はなくて、店は殆んど母が仕切っていました。順達な資金があったわけではなく退職金で起業したので、お金のことではずいぶんと苦労をしていたことを、弟と二人で見ていましたから、私は商売だけは絶対にしたくないと子供心に思っていました。
絵はいつ頃から習われたのですか?
もともと絵を描くことが好きで、小さい頃は絵ばかり描いていました。小学校に入って近所に絵を習いに行きました。小学3年の時に毎日賞に入賞して、親もこの子は才能があると思ったでしょうね。私自身もそう思いました。ところがその後、絵をいくら描いても、自分が思うような色を出せなくなってしまい、絵を描くことが苦痛にもなりました。高校に入って、芸術選考で美術をとり、授業で描いた時に、初めて自分が思うような絵が描け、その絵が評価されました。それをきっかけに描く楽しさや自分を表現する喜びを取り戻しました。高校2年の時に、恩師である平岡秀樹先生と出会い、先生の勧めで美術部に入部しました。平岡先生は油絵で日展に何度も入選していた人でした。 この基町高校には、今でも「桐美会」という美術部OB会が活発に活動しています。新校舎になった時にアトリエ科ができ、そこで時々ステンドグラスの講習を頼まれてやっています。年一回の高校の作品展に桐美会の作品展示もさせてもらっていますが、毎年高校生の卒業作品の中に、ステンドグラスが数点あって、嬉しく思っています。
その後、油絵には進まなかったのですか?
短大時代は、平岡先生の日展や個展のお手伝いを楽しくしていました。短大を出て大手精密機器の会社に入社しました。IT化がスタートした時期で、その業務やいろいろ責任のある仕事に就かせてもらいました。会社で働きながら、平岡先生の紹介で、藤川素子さんという染色家の先生を紹介していただき、毎週日曜日、アトリエに通っていました。絵を描くことより、何かを作り出すことの方が自分に合っているように思ったからです。藤川先生の下に6年通いましたが、私自身の人生の軸が定まっていなかったので、染色を仕事にして続けていこうなどという思いは全くありませんでした。今思い返すともったいないことをしたなあと思います。 平岡先生、藤川先生のそばにいて感じたことは、ライフワークとして一本の柱をもって生きている人の強さと豊かさです。私も先生たちのように、ものを作り出す仕事を柱にして生きていきたいという思いを持ちました。
私は小さい頃から文学少女で、恋愛にとても憧れていました。とにかく10代で好きな人と結婚したいと。(笑)23歳を迎えた頃、責任ある仕事についてとても楽しく働いていたので、結婚しないでこのまま仕事を続けようか、どうしようかと迷いました。まだまだ23歳なんですが、その時は真剣に考えました。仕事はしていきたいが、このまま年老いていきひとりで孤独に耐えられるだろうか。いや、私には無理。やはり結婚しよう。そこで、親や友人に結婚したいので誰かいい人を紹介してくださいと頼みました。結局、数年後に友人の結婚式で出会った今の主人と結婚することになりました。(笑顔)
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