子どもの頃はどんなお子さんでしたか?
父は長野県岡谷で、6人兄弟の末っ子に生まれました。11歳で一番上の姉夫婦の養子に出され、14歳から印刷会社で働き始め、20歳で単身上京しました。父親の人生の方が波乱万丈で私よりよほど面白いですよ。母は山形出身で東京家政短期大学を出て化粧品会社の社員食堂で働いていました。その会社の寮で父と出会ったそうです。結婚して活版印刷の会社を作りました。父の名前の文男の「文」と母の名前の典子の「典」を取って、文典堂と命名しました。私の名前は「大」、弟は「潤」といいます。両親は文典堂が大きく潤すようにと名づけたそうです。
会社を作った1965年に私が生まれました。母は出産後私を背負って、5キロ10キロの重い活字を運んだそうです。母が強し!ですね。2歳違いの弟と二人兄弟です。兄弟揃って中学高校は日大の付属に通っていました。中学校から野球部で、高校では甲子園を目指す野球少年でした。開けても暮れても勉強そっちのけで野球に熱中していました。高校三年の秋、あわてて勉強を始め、なんとか日大の現生物資源科学部食品経済学科)に進みました。大学に入ってからは、面白い先生に出会ったこともあり、良く勉強したと思います。本もずいぶん読みました。
私は「車」が趣味で、大学から社会人にかけて、A級ライセンスを取ってレーシングカーで富士スピードウェイを走っていました。
大学を出てすぐに文典堂にお入りになられたのですか
いいえ、文典堂で仕事をしようとは、全く考えていませんでした。弟も同じです。私は商事会社に入り、北海道支店に配属されました。大学での専攻をいかし、農産物輸入の仕事をしたかったのですが、その会社は農産物の取り扱いがなく、担当したのは、産業機械で、倉庫やトラックターミナル、プラント設備の営業でした。仕事はとても面白かったです。入社当時、社会に出たからには、仕事は自分で開拓するものだと考えていたので引き継ぎのお客様を「そんなものいらない」と断って、飛込みで新規開拓をしていきました。かなり生意気な新入社員だったと思います。(笑)2年間一所懸命に働いたらいたつもりです。東京の本社に呼び戻されました。本社でも楽しく充実したサラリーマン生活を送っていました。扱うものはプラントの大きなものから、小さなものまで、自分で売りたいものを考え商品開発もし、自由に仕事をやらせてもらいました。これはとても勉強になりました。会社から物流管理士の資格も取る学校にも行かしてもらいました。
ご両親の会社を継ごうと思ったきっかけは?
私が27歳のとき、父の右腕だった48歳の営業部長が事故で突然亡くなりました。文典堂くらいの規模の会社でナンバーツーがいなくなるということは大変なことです。組織立っていないのが中小企業の一番弱いところでもあります。私は商事会社でえらくはなりたいとは思わなかったけれど、産業機器のスペシャリストにはなりたいと思っていました。現役バリバリの営業マンとしてやっていた仕事は好きでやめたくなかったし、会社も辞めないでくれといってくれたのですが、文典堂がそういう状態であるということで、宅建の資格を取って不動産会社で働いていた弟に一緒にやろうと声をかけて、二人で1974年3月文典堂に入りました。
大企業で働いてよかったことは、人脈ができたことと大きく広い情報を得ることができたということです。
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