【桜井】富士河口湖町でお生まれになられたのですね。ご実家はどんなお仕事を?
目の前に冨士山があって、相手にするのが自然だけという環境で育ちました。冨士三景に数えられる御坂峠の天下茶屋が実家です。昭和九年に創業しました。
徳富蘇峰が天下茶屋の名で新聞に紹介してくださり、それがきっかけで井伏鱒二などの文豪が集まる茶屋として親しまれ、太宰治の 「富嶽百景」では「富士山には月見草がよく似合ふ」という名文を残してくださいました。
山の中の一軒屋でしたが、日常ではお会いできないような方もたくさん訪れてくださいました。小さい頃はテレビで見て いたような人が撮影でいらしたり、外国からもこられたりととても刺激的だったことを覚えています。
◆東京の大学にすすまれましたね。
父は天下茶屋の二代目なのですが、とても古い考え方を持っていて、「女に学問はいらない。生まれ育ったこの河口湖町で家の仕事を手伝え」と大学進学には大反対でした。
でも私は東京の大学に進学したかったので、受験のために勉強をしていると父が怒るのです。それで、夜は布団をすっぽりとかぶって参考書を片手に懐中電灯の光で勉強をしていました。(笑)受験シーズンが近づいても父は相変わらず反対でしたので、なんとか頭をひねる毎日でした。
ある日、一般推薦制度で受験して合格すると断れないということを知り、父に「受験届けを出してしまいました。どうせ落ちるから受けさせて」と頼みました。お蔭様で合格。その大学が大正大学なのです。少人数制の大学で、先生方にも親切にしていただきました。
しかし、最後まで反対していた父がすんなりと進学を許してくれたのかが今ひとつ疑問でした。聞けば、高校時代に富士河口湖町の広報のお手伝いをしていたこともあって、地元のわたしをよく知る方が強く説得してくれたとのこと。卒業してから母から聞きました。当時、進学したい一心で父に4枚つづりの手紙を出し、「卒業したら実家に
帰ります。夏休み・冬休みには帰ってお店を手伝います。」と自分なりに公約を掲げて説得したつもりだったのですが・・ ・(笑)
◆それで卒業後は戻られたのですか?
実は遅ればせながら反抗期だったのか、東京の証券会社の社長秘書の内定をいただいていて、これで父の下から逃げられるかもしれないとほっとしていたのです。
ところが、母から電話が入り、「山梨放送の願書の締め切りが明日だから帰ってらっしゃい」と言われてしまって・・・。卒業したら帰ると約束していたので、泣く泣く従いました。 当時、学費は家から出してもらっていましたが、生活費はアルバイトでやりくりしていました。そのアルバイトの一つがヘアーモデルでした。ちょうど金髪に染めていて・・・(笑)仕方がないので黒く染め直したら、なんと紫色のちりちりヘアーになってしまいました。それをなんとかのばして受験しました。(笑)一次試験に合格してしまい、次の面接へ。
その年、山梨放送はアナウンサーは採用しないと聞いていましたので、落ちるために、「アナウンサー以外で就職する気持ちはありません!」と言いきったのです。何しろ落としてほしかったのです。これで落ちたと喜んでいたら、「合格」の通知が届いてしまいました。
青天の霹靂ってこういうことですね。作戦大失敗でした。(笑)
◆アナウンサーをめざしていたのではなかったのですね。
当時は、学芸員になろうと思っていました。小さい頃から心理学者になりたかったのですが、大学選考時点で無理だと気づきました。
当時、大正大学には心理学科がなかったのです。そこで、まずは美術館に勤めて学芸員の仕事をしながら、心理学の勉強をしていこうと考えました。ただここにも誤算があって、何か始めるとむきになってしまうという性格が災いしてか?!アナウンサーの仕事にものめりこんでいきました。(笑)
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