はい、生まれは北海道斜里郡です。よく、オホーツク海のトドと戯れていた渡邊ですと自己紹介することがあるんですよ。(笑)育ちは釧路です。両親はもう他界しました。今は旭川に兄が住んでいます。
大学は東京ですか?
はい、初めて東京に出てきたときはカルチャーショックでした。まず人が多い。通学時のあのラッシュアワーの駅で、電車のドアが開くと同時に人が階段めがけて押し寄せていく光景には恐怖さえ感じました。(笑)それに家と家の間に塀があること。なんでこんな狭いところにわざわざ塀を作るのだろうかと・・・。塀も鍵もない北海道での生活でしたから、何もかも驚きの連続でした。
大学卒業後は東京でお仕事をされたのですね。
人の少ない北海道で生まれ育って、人が恋しいということも根底にあったのだと思います。私は人とかかわっている事が好きなのです。
英文経理をやりたいという希望もあって、タスコジャパンに入社しました。当時は6〜7人の会社でしたが、社長が「これからの女性は技術を身につけて、アシスタントではなく、責任ある仕事をするべきだ」と考えていた人でした。経理の経験のない私にとってすべてが勉強でした。売上6億円の会社の経理、人事、総務すべてを一人でやっていました。社長も大きなリスクを背負いながら任せてくれたことで、私は相当頑張りました。8年後31歳の時に副社長に就任することになりました。
私がそうやって育てていただいたことは、今のアバンティでも活きています。この人と思った時には、取締役にもします。100年企業を目指すに値するパーソナリティや経験をつんだ人であれば、会社を継いで欲しいと、常々社員に話しています。私には娘がひとりいますが、会社は社員の為のもので、娘に継がせるものとは思っておりません。
アバンティさんを起業されたのは?
タスコジャパンは、当初光学機器を主として取り扱う企業で、90%が輸出という会社でした。1985年9月にタスコジャパンの広告宣伝、カタログ等の作成、国内の営業を目的として設立し、その社長に就任しました。タスコとアバンティの二足のわらじでやっていっていいものか悩みました。タスコは安定した会社となり、部下も育ち、私がいなくても十分やっていける状態になっていました。そういった状況の中で、100%意識を注入して新しく道を切り開いていくアバンティに専念したいと考えたのです。当時のタスコの社長の好意で、独立するにはお金がかかるからといって、しばらくはタスコの製品の国内販売を、在庫を持たずにやらせていただきました。同時に1990年オーガニックコットンの輸入の依頼がありました。
起業後のご苦労は?
会社は生き物です。順調になど行きません。成長する過程においては、多くの節目がありました。社員とギクシャクすることもありました。どんな会社でも順風満帆でくることなどありません。しかし私はいつもラッキーだと思うのは、そういう節目にいろいろな人たちの助けがありました。
今思うと、1995年に大きなターニングポイントがありました。
それはどういうことですか?
1990年からオーガニックコットンを日本に入れて、1993年から多くの会社にオーガニックコットンへの理解を深めてもらう努力の結果が出始めていました。チームを作り、協会を作ってオーガニックコットンの製造基準もつくり本格的なスタートをしたところでした。ところが、1995年に阪神大震災が起きて、一緒にやろうといっていた会社が大打撃を受け復興さえ危ぶまれる状況になりました。協会からも1社2社と抜けていき、最後にはアバンティ1社となり、オーガニックコットンのマーケットは壊滅状態となってしまいました。
しかし、その中でもラッキーだと思うのは、抜けていった会社は皆大きな企業で在庫を持っていました。その在庫を、アバンティに売らせてくれました。3〜4年、売れた分だけ入金すればいいということをやってくれました。これは私がオーガニックコットンを広めていく上で、とても大きな支えとなりました。