有田にお生まれと伺いましたが、いつまでお過ごしでしたか?
高校まで 有田で過ごしました。有田は人口約22,000人のやきものの町として有名ですが、私が小学校に通っていた頃は、クラスの8割がやきもの関係の仕事に従事していたという、他には何もない町でした。親父は高校を出て、やきもの関係の会社に勤めたあと、中途で銀行員になりました。その後55歳で早期退職をして、友人のやきものの会社が危ないというので、その会社に建て直しに入りました。
銀行員時代、親父は営業が上手く、常に預金獲得高が会社の中でトップでしたが、単身赴任はいやだと転勤を拒み続けました。出世街道にはまったく関心のない人でした。言葉では言いませんでしたが、家族がいちばん大切と思っていたのでしょう。母は、今も昔も「いつもわが道を行く」父に相当苦労したようですが・・・。今は年金生活をしています。
私は、小さい頃から有田という小さい町で、しがらみ・力関係・しきたりなどなど、正しい・正しくないが決められる社会が性格的にいやでした。都会に出たい、世界に出たいというのが夢でした。まだ見ぬ世界を見たいという「坂の上の雲」の理想をもった田舎少年の一人です。
◆ ◆ では、どんな大人になりたいと思いわれましたか?
政治家になりたいと思いました。私の家は貧しく、小学校5年生まで町営アパートに住み、その後小さな家を買い、食べていくことはできました。しかし、有田は商人の町でそこそこ裕福な生活をしていた友人の中で育ち、貧富の差、不平等な社会を変えたいと思っていました。社会の仕組みを変えるには政治家かなと小さい頃から思っていました。弁護士になったのも、底辺にはそういう思いがあったからではないかとも思います。
◆それで大学で法律を専攻されたのですね。大学生活はいかがでしたか?
大学に入って6年間、学生運動に熱心になりました。自分の行き方として勉強はいつでもできるけれど、学生時代しかできないことをやりたいと思ったことです。今は制度が変わりましたが、当時は、司法試験はいつでも勉強すればいつでもできるという、根拠のない自信を持っていました。(笑)
政治がおかしいと思ったきっかけは、1983年10月12日の田中角栄のロッキード判決でした。当時の学生運動は下火になっていました。周りが何がトレンドだとか、多数の人がどう考えるだとかということで、自分の人生を決めたくないとずっと思っていましたので、あえて飛び込んでいきました。司馬遼太郎の「竜馬がゆく」にとても影響を受けました。せっかく生まれてきたのだから、人がどんな道へいこうとも、自分が正しいと思ったことを貫く生き方をしたいといつも思ってきました。それだけに、もっと楽な道があるのにという時に、どうしても辛い方を選んでしまいます。今もそうなんですが。(苦笑)
でも、苦労した分人間は成長する、というのが分かる歳になったような気がします。
◆ 卒業されてから、2年で司法試験に受かっていらっしゃいますね?
1989年に大学を卒業してから、弁護士を目指して、勉強を始めました。悔いなく卒業したのですが、なにしろ大学での6年間はほとんど授業に出ていなかったので、その後の2年間は家庭教師と新聞配達で生活費を確保しながら、食事時間も惜しんで勉強しました。すごく楽しかったですし、心は夢でいっぱいで豊かでした。
1992年司法試験に合格し、司法修習生を経て、1995年東京法律事務所に入所しました。この事務所では、組合・労働者サイドからの派遣問題、パート問題、労働争議などを扱っていました。全印総連の顧問をしていた時に、2件くらい倒産争議があって、工場に泊り込んだり、退職金を確保したり、解決金元手に新しい会社を作ったり、そういう事件も扱いました。すごくいい経験を積ませてもらったと感謝しています。
◆ 独立してパートナーズ法律事務所を作られたのはどういうきっかけでしたか?
いろいろな事件を扱っている中で、中小企業の経営者の相談が増えてきました。東京法律事務所は、経営者からの相談は受けないということではありませんでしたが、新しい課題に取り組むには新しい入れ物を作る必要があると感じ、独立することにしました。中小企業の経営者と従業員の関係は、同じ課題に取り組まなければいけないというところがあります。私はいい経営者と付き合って、一緒に世の中を変えていく方があっているのかなあと思いました。もう一つ、労働者の側にたった弁護士はいるけれど、本当に中小企業の経営者の苦しみを理解し、従業員を大事にしながらいい会社を作っていくサポートをする弁護士は不足しているのではないかと思いました。それには自分が新しい事務所をつくるしかないと考えました。労働者を大切にしない社長には冷たく厳しいので不評なのですが(笑)
|