【桜井】大学から東京だったのですか?
私の家は、福井市内で時計店を営んでいました。父は私に家を継いで欲しかったようですが、私はどうも精密な仕事は苦手で店を継ぐ気持ちはあまりありませんでした。福井というと殆どが関西の大学に進む人が多かったのですが、親戚が東京にいたので小さい頃から東京へはよく行っていました。小さい頃の夢は、かっこいい商社マンでして、予備校から東京に出て、外語系大学を目指しました。翌年青山学院大と独協大に合格して、どちらにしようかと迷ったのですが、先生に相談したら、「お前は田舎者だから、獨協大のほうが校風もあってる」と言われて・・・(笑)大学経済学部に入学しました。
◆大学を中退されていますね?
実は、結婚のためだったのです。当時付き合っていた女性に、今の妻ですが、子どもができてしまって・・・。私たち自身も22歳と21歳とまだまだ子どもでした。一緒に病院に行ったのですが、その時先生から授かった命の大切さを諭されました。これで覚悟が決まりましたね。大学3年の12月に結婚し、翌年1月に大学に退学届けを出し、その2週間後に娘が生まれました。
◆生活はどうされたのでしょうか?
もちろん私が働かなくてならないわけで、学生時代からアルバイトをしていた埼玉にある河内屋食品(株)というかまぼこ製造業の会社に入社しました。河内屋食品(株)は、富山に製造工場を持ち、埼玉は営業所でした。4年後わたしも課長になっていましたが、その会社が営業不振で埼玉の会社を閉鎖して、富山の会社一本に絞ることになりました。私は退社し、福井の実家に戻ろうか、それとも妻の親戚が東京の渋谷で八百屋をやっていてそれを手伝おうか・・・と失業保険をもらいながら考えていました。その間社長が、富山から会社に来て欲しいと、何度も訪れました。社長にとって私は唯一子飼いの社員だったのです。その時のくどき文句は「人生の選択は一番つらいものを取れ!」ついついその言葉に釣られてしまいました。(笑)
この河内屋は、今では富山でかまぼこ製造業のトップクラスとなりましたが、当時は、富山で69社中びりに近い状態でした。社長から、「君の好きなようにやっていい。責任は全て自分が取る」と任されて、能率性を重視した改革を進めていきました。魚津という小さな町でしたから、風当たりもかなり強かったのですが、大好きな社長のためなら何でもやろうという気持ちでしたね。当時の給料は、9万円・・・埼玉の時の半分でした。(苦笑)
私が現場の手直しを、社長が財務の建て直しをと二人三脚で頑張りました。当時30代の社長は、私と毎晩酒を飲みかわしながら、経営の夢を語りかけつづけていました。きっと自分にも言い聞かせていたのでしょうね。
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