【桜井】お生まれは?
品川区武蔵小山の商店街で両親が商売をしていました。祖父母もここで果物商をやっていました。バナナの叩き売りもしていました(笑)。僕も果物を積んだリヤカーを押した思い出があります。両親に私たち兄弟、祖父母、独身の叔父・叔母、住み込みの店員さんたちの11人の大家族で食卓を囲んでいました。(笑)25歳まで一緒に住んでいました。
◆桑名正博さんのコンサートマネージャーをされていたのですね。
高校時代からバンドを作って音楽活動をしていましたところから、桑名正博さんの付き人をやることになり、全国をまわりました。高校を卒業する時に、両親に大学に行かせたと思って4年間好きなことをさせてくれと頼み込みました。そして3年間桑名さんの付き人をやったのです。しかしそのときの収入は少なくて、殆どが食べ盛りの私の胃袋に入ってしまった状態でした。そのため他に収入源をと、アルバイトを始めました。そこはイベント・集客・企画・実施をする会社で、大手流通企業のニチイ(現 マイカル)を担当させてもらい、新店舗のオープニングイベントを何店舗も手がけました。オープニングの時には、ぬいぐるみを着たり、風船を配ったりと文字通り身体を張って頑張りました。(笑)もともと、工夫して新しいことを作り出すことが好きな人間ですから、これは楽しかったですよ。
◆その後、ニチイに入社されたのですね。
この仕事がとても好きでしたから。1982年に入社して、ファッション専門店のビブレの出店企画に携わりました。若い女性をターゲットにしたファッションを中心としたビブレは、時代の変化の先端であったともいえます。ですからこれはとても厳しかったといえます。私は人がやらないことをするのが大好きなので、この仕事も楽しかったですよ。現場で汗を流すことがなんともいえませんね。
1980年代というのは、ビブレは、全国で9店舗従業員も200名を超え、労働組合を作ろうということになり、なんと初代委員長に推薦されてしまいました。この活動により、労使関係も良好になり、労働条件の向上、労働環境の改善などに取り組み、成果を上げることできました。
その間、1986年には日本商工会議所主催の販売士検定で一級に合格しました。かなり難しかったですね。20代で合格できたのは珍しいことだったようです。
◆どうして独立しようと思ったのですか?
30代になった頃に、どうも会社のイケイケドンドンの体質が自分に会わないように感じていました。そんなときにある友人から、「人間は一緒の空気を吸っているとみんな似て来るものだ」と言われて、はっとしましたね。親も親戚もみんな商売をやっていたというDNAもそうさせたのかもしれませんが、自分で事業をやってみたいと決心して、1990年に退社しました。この年は80年代半ばから続いていたバブル景気が終りを告げる年で、翌年からバブルが崩壊し日本経済は失われた10年に突入して行きました。その中で、ガソリンスタンドの業界は痛手を受けることなく景気の良い業界でした。安くなった土地を買いドンドン出店をしていくそのオープニングイベントの仕事をさせてもらうことになりました。仕事は絶えることなくありましたね。ニチイ時代の部下と二人で株式会社レンという販売促進代理業、企画プロデュースの会社を立ち上げました。10年間主にガソリンスタンドの販促にかかわってきましたが、1996年の特定石油製品輸入暫定措置法(特石法)の廃止により、石油の自由化がはじまりガソリン業界は価格競争の時代に入ってきました。その為に私たちの仕事が激減してしまいました。そこで私はその会社は部下に残して、新しい道を歩むことにしました。
|