【桜井】湯建工務店さんの創業についてお伺いします。
父親が昭和21年(1946年)に、大田区で創業しました。
私の両親は長野県の生まれで、親戚が製材工場を営んでいて、東京の大田区大森から材木の買い付けに来ていたお客さんと知り合いになり、両親はその人を頼りに東京に出てきました。戦後復興の中で、仕事には困らなかったようです。苦労はあっても、黙っていても仕事が入ってくる・・・そんな時代だったようです。
◆小さい頃の思いでは?
東京湾も水がきれいで、自宅の傍の大森海岸では、昭和39年の東京オリンピック前までは、海苔も採れていましたよ。潮干狩りもできましたね。入り江もあって船着場もあって、今頃はメスのワタリガニの季節で、漁師さんがとってきたワタリガニを、浜で海水で茹でて食べたり、シャコなんか、爪しか食べなかった。贅沢者でした。(笑)アオヤギも干していましたね。車の入らない路地には、貝を剥いた貝殻を道に敷きつめてあり舗装のようでした。夏は臭くてたまりませんでしたが、冬の夜道はそれはそれはきれいでしたよ。月明かりで真っ白な道がきらきらと輝いていて、幻想的でした。
大森にも芸者さんがいまして、家の近所に見番があって、お正月になるとお姐さんたちが、新年の挨拶に持っていく煙草を隣の煙草屋で、包んでもらうのを、じーっと見ていたりして。上得意は、ピース5箱、そうでもないのは光・・・(笑)おしろいのにおいがして、日本髪に稲穂のかんざしをさして、そんな風景を今も覚えていますよ。
◆いつ頃からそのような風情がなくなってしまったのですか?
海が無くなってからです。昭和39年、東京オリンピックを境にしてですね。漁業補償金が支払われ、漁業権を放棄したのです。
僕が小学校3年生の頃はまだ海もきれいでしたが、小学校を卒業したころには、もうドロドロの真っ黒な海に変わっていました。東京は高度成長期の真っ只中で、毎日町の風景が変わっていった時代です。
当時両親は、工務店を個人事業でやっていましたが、オリンピック景気で湧いた時期に事業の基盤を作り、昭和41年に株式会社を設立しました。工務店で株式会社になるのは珍しかったようですよ。翌年に第一京浜沿いの今の場所に自社ビルを建てました。まだ周りにビルの無かったの、で、屋上には大手電機会社の看板がデーンとありましたよ。(笑)私が会社に入ったのはその後ですね。
◆どのような大学時代を過ごされましたか?
60年安保の8年後、高度成長・所得倍増の時代の後、安定と調和の時代でした。あの頃は、大学の自治を守るとか、産学協同路線はいけないとか言っていましたね。産業のために学問が支配されていいのか、金のために世の中の理想を曲げていいのかなんてことを言っていましたね。社会的な正義の実現・・・なんて思っていたんじゃないかな。(笑)
ベビーブーマーだったけれど、あまり競争意識はなくて、それよりは、努力が報われないこととか、不公平とかいうことに敏感でした。どの国にも従属してはいけないという民族の誇りを考えたりもしていました。だからといって、右翼や軍国主義は好きにはなれなかった。自由で民主的な社会は、大切にしなければと思ったし、マッカーサーの回顧録が朝日新聞で連載されていたのを読んでいたりしていました。これは中学校の時だったかもしれません。ふたつ違いの弟が、「兄ちゃん、本読んで」って、来るんですよ。良く読み聞かせてあげていました。本が好きになったのはそれがきっかけかな。(笑)
◆事業を継ぐ覚悟は小さい頃から持っていたのでしょうか?
漠然とですが、ありましたね。でも、大学時代は、親への反抗心もあって、建築屋なんかやりたくない!なんて思ってましてね。
僕の大学時代は学生運動はなやかなりし時代で、卒業間近になって、信念を通すために大学の卒業試験をボイコットしてしまったのです。おやじから「卒業証書を見せろ」と言われて、私は、「無い」と答えたら、怒りましたよ。泣きながら怒ったおやじの姿には、かなりこたえました。(苦笑)おふくろにいわれて、罪滅ぼしの気持ちもあっておやじの会社に入りました。
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