「桜井」前垣内勘左ヱ門さんというお名前はとても珍しいですね。
本名は前垣内克明(まえがいとよしあき)といいます。私の生まれ育った堺市は現在、鋳物の町として知られていますが、昔は鉄砲鍛冶の町として栄えていました。家内の先祖が堺の鉄砲鍛冶、榎並屋勘左ヱ門という人で、私が18代目勘左ヱ門の名を継ぎました。榎並屋勘左ヱ門は鉄砲鍛冶の元締めだったようです。私の会社に、火縄銃を飾ってありますよ。
◆では、今の会社は奥様の実家の仕事を継いだのですか?
いや違います。私が起こした会社です。大学時代、京都の鋳造会社でアルバイトをしていたことがありましたが、その金属を溶かす仕事が、俺にでもやれそうでかっこいいなぁ、思いました。大学を卒業して、製薬会社に勤め、四国で仕事をしていた時に、ちょうど鋳鋼会社の社長から、仕事を手伝ってくれないかと言われて、私がやりたいと思っていた仕事だったので、その場で「ええよ!」と言って会社を辞めました。ところがその会社に行ってみると、その社長は二代目さんで、なんで私を呼んだのかわからへんのですよ。もう会社は火の車で、すぐにアウトになってしまいました。(苦笑)
◆それは大変でしたね。それからどうされたのですか?
もともとやりたいと思っていたので、そんなら自分でやらなきゃしゃあないなと思いました。そんな時に、たまたま飲み屋で会った人に、「いい若い衆が何してんねん!」と言われました。私は「こうこうで・・・こういう仕事がやりたいと思ってるんやけど、突破口がないんでねえ」と答えたら、運良くその人から「うちはそういうものを必要としているから、注文やるで・・・」「ほんまですか」・・・と、そのとおりになりました。
また西成で安物のてっちりを食べていたら、横に座ったオッチャンが鋳物職人でした。大阪では、横に座るとすぐ話しをしますから、「こんな商売してんねん」「俺はその職人やで」「一緒に手伝ってくれる?」「俺は丁度前の会社辞めてぶらぶらしているところだからええよ」ということになりました。これもまたお酒が取り持つ縁ですわ。(笑)
その人は、4年くらい一緒におってくれました。彼は鋳物のことを何もかも出来る職人で、型も作れるし、溶解の技術も持っていました。
◆鋳物業を起業するにはかなり資金が必要だと思いますが、当初の資金はどうされましたか?
今度もまた飲み屋ですが(笑)、そこで母の知り合いの社長とばったり会いまして、「あんた今なにしてんの?」と聞かれ、「こういう仕事をやろうと思っているが、場所も無い、金も無い」と答えたら、「うちの工場の一角を使ったらいい。立ち上げにどのくらいお金がいるの?」「まあ、500万円くらい」「あんたのお母さんに昔世話になったから、その500万円貸したる!」と、偶然がこんな風に重なりました。何もかも上手くコトが動き出しました。学生時代からやりたいという「思い」が、そういう方向に向かわせた気がしますね。やりだしたら、もう前に進むしかないので、一生懸命でしたわ。もう突っ走るだけです。30歳の時、結婚して5ヶ月目でした。
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