【桜井】ちいさい頃はどんなお子さんでしたか?ご家族は?
小さい頃は、名古屋のまだ田舎のほうに住んでいました。田圃の中に立っているようなアパートで、遊び相手はカエルやミミズ、持って帰って母によく叱られていた記憶があります。(笑)
小さい頃のほうが人見知りせず、誰にでもつついて行ってしまう、親にしてみれば、心配なちょっと危ない子でしたね。弟がお母さん子で、外出する時は私が祖母の家に預けられ、弟は母にいつもくっついて出かけていました。私は気性が激しかったみたいで、(今も、そうかな・・・)(笑)それでいつも、親戚からは弟と私が逆になればいいと言われていました。
◆演劇を目指された経過をお話しください。
小学校の学芸会で「みつばちマーヤの冒険」で蜘蛛の役をやったことがはまったきっかけです。今考えてみると、中学2年の時に東京に引っ越し、その中学の演劇部の顧問の先生との出会いが、一番大きな影響だったと思います。
その先生は東京都の中学校演劇連盟を作った方で、今はすっかり珍しくなってしまったいわゆる“演劇キチガイの先生”だったのです。“キチガイ”って、今放送禁止用語でしたっけ?でもまさにそういう先生でした。その頃は家の中がごたごたしていた時期で、その先生と出会わなかったら、私は生きていたかどうかもわからない・・・というのは大げさですが、でもそう思っています。
演劇に夢中になって嫌なことを忘れました。おかげで中学3年の3学期まで部活動に熱中して受験勉強なんて何もしなかった。(笑)後で聞いたことですが、私は問題児だったようで顧問は学年主任から色々言われていたようです。でもそんなことはその頃ちっとも知りませんでした。自由にやらせてもらっていたんですね。
その頃の高校は、偏差値別に群制度だったので、私の偏差値で入れる群は演劇部のない学校が殆どでした。それで、演劇部がある単独校1校だけ、滑り止めも受けずに受験しました。担任はずいぶんハラハラとしたことでしょう。よく受かったものだと後で思うと冷や汗ものです。(笑)
高校時代も部活に通うのだけが目的のような3年間でした。でもまさか、本業に選ぶとは思ってもみませんでした。親は、絶対反対でしたし、私も演劇で食べていけるとは思っていなかったので・・・。
それで何にも考えず、職種の希望もなく就職指導の先生に勧められるまま、卒業してOLになりました。でも、最初に就職した会社が退屈で退屈で・・・(笑)女子社員は、いわゆるお茶くみ・電話番・コピー取りだけ!そこで、高校の演劇部で一緒だった友人とジャズ・ダンスを習いに行きまして、そうしたら、演劇が楽しかったことを思い出してしまい、それで趣味で演劇やりたいなと思って、働きながら夜間の劇団養成所に行ったのが運のつき、この世界にのめりこんでしまったのです。
◆劇団の養成所を卒業後のさまざまな体験についてお話ください。
いったんは、やっぱり劇団員の過酷な生活を垣間見て、それってつまり貧乏だっていうことですが、やっぱり普通の人生を送ろうとあきらめて養成所卒業後に再就職しました。でも、やっぱりあきらめきれず、また別の夜間の養成所へ通いだしました。
この頃は正社員をやりながら週3回の夜稽古に通い、稽古の後は朝まで飲んでいました。始発まで飲んで、山手線を2周して仮眠をとり、一日おきにしか帰宅しないという、なんとも無謀な生活をしていました。会社では経理をやっていましたので、これが今役に立っています。思えばこの会社には、大変お世話になったのですが、だいたい、こんな生活していてまともに働けてなかったと思うし、その割には反抗的な社員で、最後はあまりよろしくない退職の仕方をしたなあと反省もしています。
養成所を卒業し、もちろんプロの俳優になりたかったわけですが、どこの劇団にも入れず、とりあえずはバイトに明け暮れながら、友人の旗揚げした劇団に出たりしていました。バイトはいろいろやったほうではないでしょうか。友人に会うたびに職が違うので“転職の鬼”といわれました。(笑)やったバイトの中で貴重だったのは、お座敷コンパニオンですね。「プレジデント」の表紙を飾るような政界・財界の方がいらっしゃる芝大門の料亭で新橋の芸者さんたちと一緒に働いていました。これはとてもいい経験でした。
◆劇団銅鑼さんに入られたきっかけは?
他はどこも入れてくれなかったので・・・。(笑)「いい劇団だよ」ということは、養成所の演出家から言われて入ってみたら、華やかな舞台に憧れていたのに、銅鑼のその頃の芝居って、農村を舞台にした芝居ばかりで華やかさなんて何にも無くて、入ってすぐ後悔しました。すぐにでもやめようかと思っていたのですが・・・。(笑)
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