青森県弘前市のお生まれですね。
はい、青森県弘前市に生まれました。私の生まれた町を、太宰治が「津軽」の中でこんな風に表現しています。
「あれは春の夕暮だったと記憶しているが、弘前高等学校の文科生だった私は、ひとりで弘前城を訪れ、お城の広場の一隅に立って、岩木山を眺望したとき、ふと脚下に、夢の町がひっそりと展開しているのに気がつき、ぞっとしたことがある。私はそれまで、この弘前城を、弘前のまちのはずれに孤立しているものだとばかり思っていたのだ。けれども、見よ、お城のすぐ下に、私のいままで見た事もない古雅な町が、何百年も昔のままの姿で小さい軒を並べ、息をひそめてひっそりうずくまっていたのだ。ああこんなところにも町があった。年少の私は夢を見るような気持ちで思わず深いため息をもらしたものである。万葉集などによく出て来る『隠沼(こもりぬ)』というような感じである。私はなぜだか、その時、弘前を、津軽を、理解したような気がした。この町の在る限り、弘前は決して凡庸のまちでは無いと思った。」
この「隠沼」のような町で、母の実家は明治時代から醤油屋を営んでいる旧家でした。私は7人兄弟の6番目の三男として育ちました。父は南部の出で、一人っ子で父親を早くなくし、母が再婚したため祖父母に育てられ、苦労して職業軍人になりました。弘前の第八師団赴任の時に母と結婚、敗戦時は副官をしていました。終戦後母の実家のとだえていた醤油屋を再開。軍人から醤油作りと商売への転身は、プライドの高い父にとっては苦労があったし9人家族が食べていけるギリギリだったと思います。資産を切り売りしたり軍人恩給を仕込費に回したりしながら子どもたちを育てていました。小学生の頃、旧満州国での軍人時代の写真を見てショックを受けた記憶があります。父親自身も軍人時代の心の傷と栄華そして今の仕事上のことなどを毎晩お酒で紛らわせていたようでした。
少年時代の佐藤さんはどんなお子さんでしたか?
かなりの腕白坊主でプロ野球選手になるんだと夢中でした。体中傷が絶えず、今でもその後が残っています。(笑)学校の成績はそこそこよかったと思いますよ。でも中学1年の正月開けに、母親が急逝しました。母はお茶とお華の先生をしていて、ちょうど初釜の翌日のことでした。朝新聞配達から戻ったら、母は帰らぬ人となっていました。私は母親にかわいがられて育ったため、突然の死を受け止めることができず、虚無感に襲われ、物事をまっすぐ見ることのできない人間になっていきました。父親は母の死を機に大好きだった酒をやめました。子供たちがまだ小さく自分がしっかりしなければとの信念からでしょうが、偉いなあと思います。中学3年になり、野球への想いも挫折し友人たちはみな受験勉強に向かう中、私は目標を失っていました。そんな時、学校の廊下で大海原を走る帆船が描かれた船乗り募集のポスターが目にとまりました。直感的にこれだと思いました。修学旅行で初めて乗った青函連絡船から見た地平線の向こうの世界へのあこがれ、それと家を出て早く独立したいという気持ちもあって、全寮制の国立小樽海員学校を受けることにしました。
この小樽海員学校は2年制で経済的にも負担が少なく奨学金制度もあり、受験生は北海道から新潟までと各地から、中卒から高卒までと年齢幅もありました。3歳上の同級生に文学青年がいまして、その人の影響を受けて本を読み出しました。2年生になりガリ版の同人雑誌を作ったりしましたが、その時に読んだ小林多喜二の「蟹工船」に感銘を受けました。小林多喜二は小樽出身で、ある時東京芸術座という劇団が市民会館で「蟹工船」を上演すると新聞で知りました。私はどうしてもその舞台を見たくて、外出のお願いをしました。しかし寮は週末の昼間の外出しか許されていません。平日の夜、まして演劇を見るなどもってのほかでした。何度も頼んだのですがダメでした。ところが当日宿直の年配の教官が有り難いことに許してくれたのです。「じゃ、田舎から兄貴が会いにきたことにしよう」と。市民会館は満員で、一番後ろの席で観た「蟹工船」の舞台は私にとって衝撃的でした。身が震えるようなカルチャーショックを受けて雪の中歩いて寮に帰りました。この舞台を観たことがきっかけで、「自分は一体何をやりたいのだろうか?」「このまま船に乗っていいのだろうか?」という疑問が芽生え始めました。
船で世界を周りたいというのが夢だったのでは無かったのですか?
もちろんそうでしたし憧れはありましたが、自分に向いていないんじゃないかと思いはじめた時であり、単調な寮生活に物足りなさも感じていました。その後、大手の大阪商船三井船舶に内定し、卒業を目前の2月に友達と札幌の雪祭りを見に行きました。夕方の門限時間5時までには寮に戻らなければいけなかったのですが、私だけ帰りませんでした。帰りたくなかったのです。翌日戻ると大問題になっていて、校長の判断で家庭謹慎になり、結局内定は取り消され、船で世界を周る夢は消えてなくなりました。(苦笑) 卒業後、父親がせっかく自分で決めた世界だから就職だけはしろと諭し、北炭の子会社の石炭船に乗り、全国の港に石炭を運びました。大卒初任給の3倍はありましたね。しかし心はすさんでいました。港に着くと、まだ二十歳になっていないのに、先輩たちに連れられて飲み屋通いの日々でした。ある時苫小牧で、飲んだ揚げ句、喧嘩に巻き込まれ、相手に怪我をさせた傷害事件で留置所に。当然出航時間に間に合わず、即刻首でした。未成年ということで、家庭裁判所行きとなり、父親が迎えに来てくれました。度重なる不祥事を起こした私に「やってしまったことはしょうがねえべ、これからだ」と言っただけで、怒りもせず、責めることもしない父親に対して、申し訳ない、こんなことをしていてはだめだと、心から反省をしました。その父も23年前に他界。幸いにも私の舞台を見てもらうことができたし、最後は病院で看病することもでき少しは親孝行できたかなと思っています。 首になり弘前に帰って、義兄の建築士の現場を手伝いしながら、「これからどうしたらいいのか」と考えた時に、小樽で観た「蟹工船」の舞台の感動を思い出し、役者になりたいというより未知のその世界で生きてみたい、後で後悔するよりダメもとでやってみようの気持ちで、「蟹工船」を上演した劇団の研究所受験のため、北区十条で果物屋を営んでいた姉夫婦を頼りに上京することにしました。19歳の頃です。
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