墨田区でお生まれですね。
生まれも育ちも、ものづくりの街墨田区です。商売をしている家の多い本所で、父はサッシ製造業を営んでいて、仕事場をかねた住居で職人さん達に囲まれて育ちました。母方も江戸時代からの家で、墨田区で舞踊人形づくりをしていました。両親とも生まれ育った土地です。墨田区というところは、東京の東に位置し、多くの人々が職住をともにしながら近所とのつながりを大切にしながら住む場所として長い歴史を持っています。高低差が3メートルと、江戸時代は人が住みやすく、最も栄えた地域の一つで、下町と呼ばれている場所です。
しかし、関東大震災、東京大空襲で街が二度も全焼しました。その都度祖父は焼け出され、家族を失う悲しい経験を持っていました。ですから、両親には、親戚や兄弟がほとんどおりません。私が小学3年生の時の社会科の地域学習で関東大震災の話を聞く宿題がありました。祖父は大震災の時小学生で、祖父の父は外出中であったそうで、祖父の母と足の悪い兄、そして二人の小さな妹と逃げる途中、隅田川べりで力尽きた母から「私たちはもうダメだから、一人で上野の山まで走っていきなさい」と言われ、火の粉を浴びながら、一人走って逃げ延びたそうです。それまで、祖父はこの辛い体験をあまり語りたがりませんでした。
私が育った頃は、近所には駄菓子屋がものすごい数ありました。紙芝居もありました。私の世代で紙芝居を見たと話すとびっくりされます。本所にはまだそんな風景が残っていました。そして今も、美しい日本人の美意識が生活の中にも多く、様々なシーンで、行事で、日常で、生きづいています。日本人として大切にして、もっと広めていかなければいけないなあと思っています。私は生まれ育ったこの墨田区という土地をこよなく愛しています。
小さい頃はどのようなお子さんでしたか?
ものづくりの現場を見ているのが大好きな子どもでした。下町の工場は一軒一軒が小さな工場です。職人さん達にも良くしてらいました。ものができていく光景を見ているのが大好きでした。見ていると次はどうなるのだろうかとその先が気になって、帰ることを忘れて見入っていました。どこの工場に行っても、機械だけでなく、職人さんの手の動きや道具すべてが気になって、見ていることがとても楽しかったのです。
いろいろな工場が私の遊び場でした。見ているうちに、「このおうちの技術とあそこのおうちの技術をミックスさせたら、こんなものができるのでは?」といろいろなイメージが湧いてきました。その時感じたひらめきが今の私の仕事に大きく繋がっていると思います。
ものができる工程を見ていると、社会の仕組みが見えてきたり、大人が働いている姿を見ることによって、社会がどう動いているのかが、イメージできました。下町に生まれて育ちますと、特別教えてもらったわけではありませんが、目の前に広がっている日々の光景の中に学ぶことが多すぎたということです。たくさんの大人の人たちの仕事を見ることが、私にとって心の安定につながり、生きる軸にもなりました。働くことで社会が繋がっていて、一人一人が活動することの意味を感じ取ることができま
した。 歩いていける範囲でものづくりが可能なこの墨田区というところは、焼け野原になっても、また復活できたことの必然性をも理解できました。10代になって、この土地は凄いところだと思い始めました。「すべては繋がっている」そう感じました。ここは日本の縮図のようなところです。
デザインのお仕事をしようと思われたのは?
働くということは、「社会の為に働く」と親から学んでいたので、自分は何の役に立てるのかということが常に頭にありました。でもそれまではやりたいことがどんどん変わって、これだと思うものには出会っていませんでした。小学生の頃、なりたかったのはマジシャンなんです。マギー司郎さんのマジックを見て本気で弟子入りしようとまで思いました。(笑)ステージを見て、マギー司郎さんのマジックは、能力がありながらひけらかず、時には失敗して見せてお客を楽しませ、最後にはプロとして盛り上がるマジックを見せてくれます。見ている人を幸せな気分にさせてくれる凄い人だなあと思いました。相手の立場に立った仕事ができるというところで、マギーさんにマジックを学びたいと思ったのです。 私の学生時代はバブルがはじけ、不況といわれる時代でした。ものづくりが元気を無くしていました。小さい頃から、地元の人によって鍛えられたアイディアがありましたので、ものづくりに繋がるデザインという道で、多くの人のために活かしていければと思いました。デザインの仕事を真剣に考えたのは、高校3年生の時です。
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