【桜井】とてもきれいな標準語を話されますね。お生まれは関西・・・?
東大阪市の河内の生まれ、思いっきりの大阪人なんですよ。(笑)
3 人兄弟の真ん中で、姉と弟がいます。家は塗装業を営んでいて、周りの親戚にも勤め人はいませんでした。
そんな中で育ってきたせいか、高校生の時、大学受験をしたいと思いませんでした。勉強がそんなに必要に思えず、働いて稼ぎたいという思いのほうが強かったのです。それで卒業後地元の信用組合に勤めたのですが、その時のお給料がなんと手取りで90000円、安かったでしょう。こんなに働いて・・・って思いました。(笑)
18歳の時に主人と出会いました。川を挟んで隣の町に住んでいたのですが、それまでぜんぜん知りませんでした。その当時主人も若かったのですが、職人として 40万円くらいの月収があり、結婚しちゃおう!と思ってしまいました。とても楽観的でした。(笑)結婚して年子で 3 人の娘に恵まれましたが、独立した主人を目当てに姑や主人の身内が入り込んできて・・・当時私もまだ二十歳を少し過ぎたくらいの年齢で若かったからそういう状態を切り抜ける知恵を持っていませんでした。主人とも何度も話し合ったのですが、どうにもならなくて、3番目の娘の 1歳の誕生日を前にして離婚、子どもたちをつれて姉の家へ行きました。
◆それからお仕事を?
働くことは好きでしたから、真剣に働けば子どもたちを育てていけると思い込んでいました。両親に、 3年間子どもたちを頼みますといって、働きました。 3年の約束がいまだに・・・、両親からあの時の約束はどうしたのかと言われています。(笑)両親に感謝です。
とにかく子どもたちを養わなくてはという一心で、歩合制の営業の仕事を頑張りました。通信機器の販売代理店の下請けで携帯電話の販売の仕事を始めました。当時携帯電話がまだ特別な人しか持っていない時代から、小型化されてアナログからデジタルに変わる時期で、この仕事ではかなり稼がせていただきました。
33歳まで 9 年間続けましたが、当時は年収なんと 2000万円ほどあって、家も立てて、子どもたちにも優雅な生活をさせてあげられました。でもそれがずっとは続きませんでした。ある日突然 取引先とのトラブルで失業、収入が なくなりってしまいました。その後、それまでご縁のあった方々からいろいろは商材をご紹介いただきその営業をかけもちでやっていました。そんなときに速読のCDの販売の依頼がきたのです。
◆それが今のお仕事の始まりですか?
私は本を読むことは好きではありませんでしたから、全く「速読」には興味がありませんでした。でもあまりにも友人がしつこく進めるので、とにかくCDの制作会社の代表の方と速読の先生に会うことにしました。
その先生は一見すると立派な宗教家のようは風貌をされていらっしゃったのですが、ご紹介いただいた時の謙虚で優しく礼節のある物腰にとても感銘を受けました。先生は、「日本では、家族で食卓を囲んで本を読んだりすることが全く無い。心を育てていかなくてはなりません。もっと本に親しんでもらえるよう、速読というツールを使って日本の文化を伝えていきたい」とおっしゃったのです。その言葉にとても感動を覚え、速読を習ってみようと思いました。
習い始めてびっくりしたことですが、当時は 5 種類くらいの営業の仕事を掛け持ちでやっていまして、一日に何件もプレゼンをしなくてはならないことが重なっても、ぜんぜん疲れを感じなくなりました。
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