【桜井】牲川さんとは珍しいお名前ですね。
牲川は、もともとは安芸の国広島藩浅野本家の藩士(系図がありました)でした。母親はその牲川の出で、明治39年生まれ、3人子どもがいて三男が私です。母が最初の結婚で兄2人を産み、その後夫と死別し、大阪に出ました。そこで母は未婚のまま僕を産みました。長兄は20歳ころ死亡し次兄とは15歳も年が違います。私はそのような境遇をなんとも思っていません。この世に生まれてきただけで感謝しています。
◆因島でお育ちだったのですね。
因島は尾道から今治まで大小9つの島を結ぶしまなみ街道の、尾道から2つ目の島で、2006年の市町村合併により、尾道市になりました。因島は、除虫菊の産地で八朔発祥の地でもあります。室町時代から戦国にかけては、村上水軍が活躍を続けました。風光明媚でのどかないいところでした。戦時中、私と実家のある尾道に疎開した母は、因島の人と4歳の私を連れて再婚しました。しかし、私はその家の籍には入れてもらえなかったので、母も籍を入れず、死ぬまで牲川を名乗りました。その家には10歳年上の男の子がいましたが、その義兄とはわけ隔てなく育ててもらいました。母を残して因島を離れることもできず、僕は因島高校を卒業後、地元の日立造船因島工場に就職し、造機設計課に5年勤務しました。しかし、昭和60年22歳の時に母が亡くなり、身内のいなくなった因島を離れ、埼玉に次兄がいたので上京しました。
◆東京に出て何をしたかったのですか?
大学に進学したかったので、働きながら、2ヶ月間受験勉強をして、公認会計士を目指し中央大学第二商学部(夜間部)に入りました。因島の時代に貯めたお金が20万円ほどありましたが、大学の入学金に7万円はきつかったですよ。なにしろ誰にも頼れず自分ひとりでやっていかなければならなかったのですから。(笑) 今までは工学機械系の仕事でしたが、どうも自分に合っていないように感じていたのです。公認会計士を目指して入りましたがすぐに挫折しました。(笑)昼間働いて夜大学に通うということでは、圧倒的に勉強時間が足りませんでした。そんな中で同年9月に高校の先輩が社長をしている(株)三電工という会社を手伝うことになりました。仕事は東京電力の申請業務、給料は35000円、四畳半一間の家賃4500円、これが私の再スタートでした。(笑)2年後に経理担当の取締役になり、ナンバーツーの存在で、昭和53年まで勤めました。三電工は高い技術力を持っていて大型駐車場の設備工事を始め、大企業を直接開拓していきました。私もそこでいろいろなノウハウを学びました。
◆起業しようと思ったきっかけは?
三電工の社長が交代したのを機会に、自分で起業することにしました。メーカーのS社から、下請けの会社が潰れてしまって困っているので独立しないかと薦められたので、そのS社の下請けとして 4人でニエカワ設備としてスタートしました。妻の実家が港区白金で歯車製造の町工場をやっていましたので、そこに本社を置かせてもらいました。日本の高度成長に乗って、仕事は切れ目なくありました。あの時代は大企業にくっついていればなんとなかった時代です。バブル時でも、専属の下請けを含めても12人くらいの私も現場に出る小さな会社でしたが、しっかりと利益を出していました。まだまだ目の前の仕事をこなしていくことだけで、経営ということを考える必要もなかったような時代でした。
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