【桜井】 ご病気で上京されて、そのまま東京に居座るとありますが?
高校を卒業後、姉の嫁ぎ先の印刷会社で、営業をしていました。十数年経って、ある日突然目が回りだしまして、地球がひっくり返ってくるくる回るような感覚が続きました。その発作はいつ出るかわからないという状態でした。当時テレビで「ベンケーシー」という医者を主役にしたテレビ番組がありまして、その監修を東大医学部がやっていました。東大にはえらい先生がいるんだと田舎にいて感じまして、それじゃあ日本で一番いい東大のお医者さんに診てもらって、それでダメならあきらめようと上京しました。当時は、夜行列車で8〜9時間かかりました。緊張していたせいか、その時には発作はおきませんでしたね。
東京の金町に叔父が燃料店を経営していまして、そこを手伝いながら、病院通いをしていました。そうしているうちに、叔父から「お前も一生人に使われているようじゃつまらんよ。自分で商売をやったらどうか。どうせやるなら、東京のほうがおもしろいよ。」とたきつけられました。(笑)そこで私もその気になりまして、田舎に帰って、東京で商売をしたいと親を説得しました。
◆ 印刷のお仕事だったのですか?
私は次男坊でしたので、分家としていくばくかの土地と家を建ててもらうのが慣わしになっていました。私はそれと引き換えに200万円の現金をもらいました。今で言ったら、2000万円以上でしょうか。それで東京で土地を買い、家を買い、印刷機械を買って、仕事を始めました。
私の妻は、私が勤めていた印刷会社の義兄の妹です。当初は、その会社の東京営業所という形でやっていました。私が営業して、妻がその仕事をこなすという形でやっていました。活版印刷の時代でしたね。伝票や封筒の名入れや名刺など仕事は結構ありました。
◆(株)ワイズの創業は?
1975年、その会社を一緒にやってきた社員にすべて譲って、新しく株式会社ワイズを設立しました。ちょうど、アメリカからプリントショップのフランチャイズビジネスが日本に入ってきた頃です。私は独自に「プリントチャンピオン」というプリントショップを、新橋にオープンしました。それまでの印刷店はというと、暗い豆電球の元でこつこつするような仕事でした。それを店頭方式の明るいお店にして、お客様の目の前で印刷機をまわすようにしました。
一番苦労したのはお店での接客ですね。これは今まで経験がありませんでしたので、四苦八苦しました。(笑)日本でのプリントショップの1番目の出店は大日本印刷(株)の子会社で、2番目がアメリカのフランチャイズの店、そしてわが社が第3番の出店でした。2年後に2号店を日本橋にオープンしました。どうせやるなら、新しいことをやろうと思ったのですよ。
このプリントショップの特徴は、「スピード」です。今までの印刷は、発注から出来上がりまでに、3日から1週間はかかっていました。それが、朝持ち込めば、夕方にはできあがるということで、料金は高かったのですが、ニーズはありました。当時は白黒のコピー機が出始めの頃で、それとの費用対効果の比較でしたね。
◆その頃から比べて、ITの発達によって、印刷業界はとても厳しくなってきたのでは?
仕事は増えてきていますよ。役所でも会社でも、印刷物や書類は増えています。ただ、外部に出すものが変わってきているということです。昔は手書きの書類を渡されて、それをタイプして書類にするところからやっていました。ワープロができ、みんながパソコンを打つ時代になって、そういう仕事が無くなってきたということです。
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