【桜井】小さい頃はどのように育ちましたか?
富山市南富山で育ちました。一歳前に父が他界し、母の実家で高校卒業まで育ちました。母の実家は新聞販売店をやっていて、明治生まれの祖母が家長として家を仕切っていました。叔父たちも同居していてなにくれとなく面倒を見てくれました。近所との繋がりも強く、私は一人っ子でしたが隣の布団屋には子どもがたくさんいて、同い年の男の子たちとよく遊んでいました。ですから寂しさを感じることは全くありませんでした。世の中に父親という存在があるということに気がついたのは、なんと小学生になってからなんです。小学校の入学式で「私の名前が呼ばれない!」って泣いたことを今でも覚えています。父方の姓になっていたので、自分ではないと思ったのです。幼稚園までは、母の実家の姓で過ごしてきたので、戸籍上の自分の名前をそれまで知らなかったのです。(苦笑)
母は仕事をしていたこともあり、小学校に上がるまでは、母より祖母と一緒にいた時間のほうが多かったですね。祖母はどこに行くにも私を連れて行きました。そんな中で育った私を、よく遊んでくれた叔父からは、「美和子は極楽とんぼだなあ、何にも考えていない」とよく言われました。(笑)
小学校、中学校、高校は、家からチャイムの音が聞こえる距離にありました。私は理系のほうが好きで、高校でのクラブ活動は、地学部と電気部に入って、登山をしたり、トランジスタラジオを組み立てたり、ハンダ付けをしたりしていました。今でも簡単なものならハンダ付けもできますよ。地学部の先生が大好きで、夏休みに白馬に部活で登った時のことは今でも楽しい思い出です。
◆大学から東京にでられたのですね。
高校は女子高でしたが、進学校で大学進学が当たり前という学校でした。でも地元の大学といったら国立の富山大学しかなくて、東京の私立大学を受けることにしました。これも祖母が母を説得してくれました。日本大学生産工学部を選んだのは、コンピュータのカリキュラムがあり、女性もいるからでした。入ってみると、この学部は2クラス300名の中で女性は2人でした。男性が多いとはきいていましたが、想像以上でした。女子高からいったのでかなりのカルチャーショックがありました。大学の勉強の傍ら、高校時代から習っていた茶道・書道・お琴も続けていました。でも今はあまり役に立っていそうにありません。(笑)
◆学生結婚されたのですね。同時に会社の仕事も手伝うことになったのですか?
主人は、大学の尺八と琴のサークルで知り合いました。主人は3級上で結婚を決めた時、私は大学4年生、当時主人はサラリーマンをしていました。大学の先生でひとりどうにも苦手な先生がいて、その授業をあれこれ理由をつけて欠席していて、単位が足りず一年留年したので、結果として学生結婚ということになりますね。この結婚で私は母から勘当されてしまいました。私は一人娘だったので、母は家に戻るものと思っていたようです。ですから、私が実家に帰ったのは、結婚して15年以上経った後でした。
でも、もしも勘当されていなかったら、今の私は無いと思います。何とかひとりでやらなければ、どんなことがあっても自分で決めたことだから後悔しないように生きようと心に決めました。私はサラリーマンの嫁になる予定だったのですが、主人の父がガンで倒れ、会社に入ることになってしまいました。私も主人の両親、祖母、弟、妹のいる家に入ることになったのです。
◆ご家族は?仕事と家庭をどのように両立させていかれたのでしょうか?
結婚当初は、オフコンを導入が始まった時代で、人手不足で台帳の入力をしてくれといわれ、そのくらいのことならばと、手伝いはじめたのがきっかけでした。バブルの絶頂期でしたから、人手が無くて、事務処理全般を手伝うことになり、営業がいなくなったからと営業を手伝って、その中で得意先も変わっていって、コンビニエンスストアへの営業が始まり、商品作りを手伝って、品質管理が必要になったのでその勉強して部署の立ち上げをしたり、仕事がどんどん増えていきました。もともと実家で小学生の時から新聞配達や集金の手伝いをしていたので、仕事をすることは嫌いではなかったように思います。27歳で長男を出産、3人の子どもたちはゼロ歳児から保育園に預け、迎えは主人の両親に頼みやりくりしていきました。
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