【桜井】お生まれは山形ではなかったのですか?
実は、横須賀の生まれです。どこか垢抜けていると思いませんか。(笑)男ばかりの4人兄弟の二番目です。父親は職業軍人で、とても厳格な人でした。疲れた、眠い、痒い、痛いなどと愚痴は一切言わない人でしたから、そういう父親に育てられたので、僕も疲れたという言葉は10年に一回くらいしか言いません。(笑)両親の実家が山形なので、戦争が激しくなって、母親は私たちを連れて実家に疎開して、山辺町に居ついたというわけです。4歳から山形に行きましたから、出身は山形ですと言っているわけです。疎開先で友達が草履をはいている中で、僕たち兄弟は革靴をはいていましたねえ。母親は、夫が職業柄いつ死ぬかわからぬ身であると覚悟していたようです。潔い母親でした。もし僕が明るいところがあるとしたら、それは母親似ですね。そして、沈着冷静なところがあるとしたら、それは父親似ということでしょう。
◆阿部さんは大変な読書家でいらっしゃいますが、子どもの頃からですか?
小学校4年生の頃から町の貸本屋から1冊5円10円で借りて読んでいました。時代小説が好きで、吉川英治の「宮本武蔵」は小学生で9巻まで、中学一年生で10巻目を読み終わりました。父親が会社の図書館から借りてきた本でしたが、私のほうが先に読み終わりました。(笑)
◆将来はどんな仕事をしたいと思われていたのでしょうか?
高校進学の時に父親が病気になりました。僕は大学に進学したかったのですが、地元の大学ならいいといわれ、それでは、親戚には教員が多くいることもあり、山形大学教育学部に行って教員になる道しかありませんでした。私は閉鎖的な町で教員にだけはなりたくなかったのです。自分の一生が計算できるような人生はいやだったのです。そこで、技術高校で一番難しいといわれた山形工業高校機械科に進みました。高校の時には、新聞部長をやっていていましたから、新聞に掲載するからといって、4〜5つある映画館で、年間100本くらい観ていました。(笑)勉強はあまりしませんでしたよ。連続6時間くらいある設計の時間なんかは、殆ど図書室に行って本を読んでいましたね。
この機械科は、就職は一流企業から引く手あまたでした。しかし、私がよく、成績の良い順にだめだと言うのは、成績順にトップ企業に就職したけれど、窓際族になったり、早期退職した友人がいたり、一番成績の悪かった友人が今トップ企業になった会社で出世したりしています。
◆それはどうしてなのでしょうか?
30年経つと、世の中が変わるということです。日立や東芝や新日鉄は今では日本一の会社じゃなくなっていて、トヨタが日本一でしょう。当時、トヨタはまだまだの企業でした。要するに、親や先生は、今いい会社に入社させたいわけです。僕たちの時代は、「三白景気」といって、セメント、繊維、砂糖の会社が花形産業でした。今絶頂期の会社とこれから発展する会社は違っていて、世の中はどんどん変化していくという事です。 |