【桜井】子どもの頃夢中になっていたものはありますか?
小学生の頃よりボーイスカウトに入り、カブ(小学校)・ボーイ(中学校)・シニア(高校)・ローバー(大学)・指導者まで約35年間活動を続け、今はOB・育成会員としてボーイスカウト活動を応援しています。
このボーイスカウトとの出会いは、なんと銭湯なんですよ。小学生の頃、お風呂屋さんで隣り合わせたお兄さんがボーイスカウトに入っていて、今度来てみないかと誘われたことがきっかけでした。(笑)このボーイスカウトは、創始者がベーデン・パウエルというイギリス人で、第一次大戦後、疲弊しきったイギリス社会の中で、家族を亡くした子どもたちが溢れ、その子どもたちを集めて生きる術を持たせ、且つ社会に役立つ人間に育てようと軍隊での斥候術をもとにしたプログラムを作りました。
斥候とは、敵の状況や地形などを探ることで、その技術をゲーム化して、子どもたちがそのゲームをすることで、生きる術を学んでいきました。私も、小学生からワクワクしながら、このスカウトプログラムを学んでいきました。そこで養われたのが、リーダーシップ力であり、チームワーク力であり、発表能力でした。これはその後の私にとってとても大きな自信となりました。
ボーイスカウトには、3つに誓いと12の掟がありまして(今は8つの掟)、それを何時も読み上げていました。私は、ボーイスカウトの活動を通して、「誠実である」「忠節を尽くす」「人の力になる」「友誼に厚い」「礼儀正しい」「親切である」「従順である」「快活である」「質素である」「勇敢である」「純潔である」「つつしみ深い」人間になることを学びました。
◆日大芸術学部に入られたのは?
マスコミの仕事がしたかったのです。大学時代は先輩からの伝手で日本教育テレビ(現在はテレビ朝日)のアルバイトADとして2年間に渡り番組制作の現場を経験しました。私にはテレビは虚構の世界である部分が多く、切り取り方で真実が変わってしまう、写っているものは事実でもその周辺を見たときに真実かどうかは別問題なような気がしました。幸い私は「題名のない音楽会」という番組を長くやらせていただいていましたが、かわいがっていただいた黛敏郎さんから契約が終わった時に「君は学生だから学校に戻れ」と言われまして、大学に戻りました。学生の本分に立ち戻れたことは、周りの方々がきちんと指導してくれたからだと感謝しています。
テレビ局だけでなく、いろいろなアルバイトをしましたよ。京都の民宿、ホテルのボーイ、八百屋・・・これは常に自分は何をやりたいのか、何になりたいのかを考えてのことだったのです。ですからどれも本気で一所懸命でした。そんなことから、アルバイト先からずいぶんとスカウトされました。(笑)結果として、広告代理店への就職を決めました。
◆広告代理店に入られて学ばれたことは?
3年間勤めましたが、営業担当だった私の仕事のスタイルはひたすらお客様への滅私奉公でした。(笑)私は中堅の会社を担当していましたから、トップの方々と接する機会が多かったので、今考えますと、経営者の考え方をそこで学ばせてもらいました。もう少し頑張りたかったのですが、晴天の霹靂とでも申しましょうか、第一製版に後継者として入社することになってしまいました。
◆それはどうしてですか?
この第一製版は妻の父が創業者で、妻は四人姉妹の末っ子でした。当時先代の武井昇(義父)は社員にこの会社を引き継ぐ予定でした。しかし身体を壊し、いざ役員の中から・・・となると会社の中があまりいい雰囲気でなくなりました。先代が友人の経営者にこういわれたそうです。「後継者を選ぶには、他人だったら100点満点、しかし身内だったら40〜50点でも大丈夫」会社の求心力を取り戻すには、やはり同族からということで、私に仕事が一番近いということもあって話がきました。私は考えた末、社員や取引先のためにも、家業存続の責任を感じ入社することを決めました。
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