【桜井】初めから建築業を目指されていたのでしょうか? 父親は、須賀川市で東北本線の安積永盛(あさかながもり)駅の国鉄マンでした。駅の収益性を上げるために、旅行社と提携して安積永盛駅を基点としたツアーの企画をして添乗員もしていました。私は大きくなったら父と同じ仕事につくだろうと、普通高校から鉄道学校に進む予定でいました。進路相談のときに先生から、君は絵が好きだから、建築に進んではどうかと勧められ、それがきっかけで、郡山の日大東北工業高校の建築科に入りました。卒業後、東京のゼネコンに就職しました。しかし東京の空気が合わなくて、須賀川に戻りました。東京ではビルの建築などの仕事でしたので、木造建築をやってみたいので木造建築の会社に入りました。東京では、直接お客さんと接するのは営業の仕事で、そこから設計にまわり、私は現場でしたので、図面どおりに仕上げていくことが仕事でした。
ところが、地元に戻ってみると、お客さんとの打ち合わせから図面を引き、現場の仕事もと、トータルに建築業に携わることができました。それがとても楽しかったですね。
◆独立しようと思われたのは? 仕事はとても楽しかったのですが、雇われている状態では自分の意見はあまり出せません。どうせ住宅を作るなら、自分でお客さんを探して、お客さんとどんな家にしたいかをじっくり話し合いながらつくり上げて行きたいと思うようになりました。それが起業のきっかけです。そういう夢があって会社を起こしましたが、起業したらそこから経営という大きな課題があるということに気づきました。高校の先生に背中をおされて建築の道に進み、その面白みがわかって、それを自分ひとりでやっていこうと思い、起業してみるとそこに経営という重大なものが入ってきたわけです。それは、勤めていた時の夢にはなかったのです。経営の第一ステップは資金繰りという大きな課題でした。
◆どうやって経営を学んでいかれましたか? まずは設計事務所からのスタートでした。図面化するとそれを自分で形にしたい、そして自分で引き渡したいと言う気持ちが強くなり、その後(株)ネモト住研を設立し、住宅建築の設計・施工業へ進みました。創業した1976年頃は、日本経済が安定期に入った時期で、基盤が郡山市という商業都市でしたので順調に仕事はありました。その後バブルの後半に、進められて調子に乗って(株)アクトという不動産会社を立ち上げ、まだ若かったので、借り入れをすることも怖くはなく、郡山に土地を買って事務所まで建てました。スタートして2年間くらいはよかったのですが、その後一気に仕事が減り、なんとか6年間がんばりました。2000年思い切ってその事務所を処分し、ネモト住研とアクトを統合して、紀洋建設(株)として再スタートを切りました。この結論を周りの方々はどう評価するのか不安でしたが、先輩の企業さんや、下請けさんたちはいい決断だと喜んでくれました。
◆その後の取り組みは? 最近では、大手ハウスメーカーや大型ビルダーが郡山に進出してきており、地元の建築業者の新築受注は減少していくという懸念を数年前から持っていました。リフォームにも力を入れていかなければとそちらへも力を注ぎました。しかし、リフォームの分野へも参入が増えてきました。
当社は、7年ほど前から、冬暖かく夏涼しい家づくりということで、高断熱高気密工法を自分たちの手で作るために勉強をしてきました。東京では考えられないと思いますが、郡山は盆地で、冬の寒さは非常に厳しく、夏は暑いというところです。この土地で快適に過ごしてもらえる住宅づくりに力を入れて新築住宅に生かしてきました。この高断熱高気密住宅は、省エネルギー住宅です。これからの住宅づくりには欠かせないものだと思っています。この高断熱高気密工法は今までになかった技術で、 NPO法人新木造住宅技術研究協議会(新住協)で学ばせてもらいました。この新住協は、特定の営利団体からは独立した開かれた民間の技術開発団体で、全国の工務店、設計事務所、建材メーカー、建材販売店、大学や公共の研究機関が参加し、住まいづくりの実践現場と研究機関とが係わり、生きた情報を交換し合うことで、革命的な住宅技術を開発し、その技術を独り占めすることなく、お互いにわかちあうことで、より安価で高品質な汎用技術へと育ててきた団体です。当社の職人たちは、あらゆる複雑な住宅の断熱工事もでるようになりました。
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