高度成長期の丑年生まれの新人類といわれた世代です。小学校から毎年学級委員。中学・高校時代は生徒会長をやっていました。
祖父母と両親、それに妹の6人家族の長男として育ちました。性格はおっとりしていましたが、母親からは仕事に貴賎はない、人は平等だと教育されて育ち、正義感が強く、弱いものいじめをしているやつを見ると黙っていることができず、しょっちゅう喧嘩していました。
祖父は大阪で米屋を営んでいましたが、疎開で兵庫県南東部の県境に面する川西市に移り、そこで父親が助成金のでる養鶏業を始めました。当時1個20円した玉子は高級だったと思います。
将来はどんな道に進みたいと思っていましたか?
中学生の時にバンドを始め、将来は音楽の道にいきたいと考えていました。数学や理科が好きだったということもあり、大学は理系を目指しました。音楽と数学は同じ脳を使います。譜面やコード進行は数学です。それに男は理系と勝手に思っていたところもありました。日本の高度成長期に育った私は、ブランド志向の申し子みたいなものです。日本の環境汚染もどんどん進んでいった時代でした。
私の学生時代のピークは中学の時でした。中学3年の時に先生から「おまえは知能指数が高いのだから学年で一番にならなければいけない」といわれたことがありました。その言葉で「俺は頭がいいんだ」とうぬぼれてしまい、それ以来勉強をしなくなりました。(苦笑)知能指数は、単に年齢との比較で、少し成長が早かったということだけですもんね。なんの自慢にもなりません。その結果、コンプレックスの塊で暗い高校時代を送りました。高校ではバンド活動を禁止されていましたし・・・。
東京の大学に進まれたのですね、それは何故ですか?
将来は音楽の方面にと思っていたので、大阪の大学に受かったものの、大阪にはレコード会社がないことを知り、東京の大学に進みたいと一浪して、難波の少人数制の予備校に通いました。ところがその授業についていけず、バンド活動を始めてしまいました。希望した大学ではなかったんですが、なんとか東京の総合大学に進学しました。大学で専攻したのは、白衣を着て研究をする化学です。
音楽に進む夢はどうされましたか?
シンガーソングライターを目指していたのですが、ルックスにあまり自信がないので(笑)これは作曲家になるしかないかと思っていました。大学4年の時にダニー飯田とパラダイス・キングのマネージャーと知り合いになり、相談したところ「それなら、ダニーさんに教えてもらえ。ボーヤになれ」といわれて、大学を留年することが分かっていたのですぐボーヤになりました。
あのアメリカンポップスの「パラキン」の愛称で親しまれていた「ダニー飯田とパラダイス・キング」ですね。ところで「ボーヤ」とはどういう仕事ですか?
ダニーさんは坂本九や九重佑三子の育ての親です。「ステキなタイミング」、「シェリー」という曲ご存知ですよね。ボーヤというのは楽器運びです。こまごまとしたバンドのメンバーのお世話係とでもいいましょうか。当時ボーヤは結構乱暴に扱われていましたが、私はそんな経験はなかったですね。メンバーの人たちがして欲しいことの先を読んで動いていましたので、怒られることは全くありませんでした。大学4年〜5年生はバンドと一緒に全国を回って仕事をしていたので、卒論で研究をする時間がありません。そこで卒論に選んだのが「チタン・マグネシウム等の非鉄金属の分析方法」というテーマで、大学に通わず、仕事の合間に英文の文献を訳していきました。
ある時、ダニーさんから「お前は押しが強いからマネージャーにむいている」といわれ、それなら続けてもいいかなとなんとなく思っていました。当時は日本の景気がよく、一人の学生に対して8社ほどの求人が来る時代でした。大学の先生の「焦って就職することはない。サラリーマンをやるなら30歳になってからでもいいのでは」という言葉を真に受けて、マネージャーになってしまいました。(笑)
マネージャーの仕事とは?
マネージャーもボーヤに毛の生えたような仕事でした。まずGパンで楽器を積んだトラックを運転して入り、楽器を下ろし設置します。ダニーさんのスチールギターを組みたて調整します。ダニーさんはいつもリハーサルなしのぶっつけ本番の人でしたら、スチールギターのチューニングには神経を使いました。準備が終わるとスーツに着替えて会場の担当者に挨拶をします。演奏が始まる音が出るとギャラをもらい、すぐ照明係りに変身です。(笑)終わったら楽器を片付け車に積み込みかえるというのが一連の仕事です。ハードでしたが楽しかった時代です。でも志した作曲をする暇も無い毎日でした。2年くらいやっていましたが、何かに腹を立てて辞めてしまいました。何が原因だったか忘れてしまいましたが・・・。結構短気なところがありますね。(苦笑)