【桜井】ちいさい頃はどんなお子さんでしたか?ご兄弟は?
父親が新潟から東京に出てきて、浅草の蕎麦屋で修行を始めたのですが、兄弟子がたくさんいて、ここではなかなか上には上がれないと見切りをつけ、豆腐屋で働きました。
二十歳になって結婚もしたので独立しろといわれて、目黒本町に店を出したそうです。当時の豆腐屋は朝の1時〜2時頃から薪でお湯を沸かすところから始まる仕事でした。父は近所に家を建て直すときくとそこに行って壊した家の廃材をもらってきて、薪にしていました。燃料費はただ!ってことですね。(笑)
小さい頃の私は、いつも豆腐作りの音で目が覚め、親たちは忙しくて遊んでなんかくれませんでしたから、大豆のなかで遊んだり昼寝したり・・・していました。ですから、両親の仕事に憧れるというよりは、「たいへんだなぁ〜」と思っていました。小学校の頃は両親の仕事は一生懸命頑張っているけれど生活は厳しく貧しかったのですよ。そんな環境の中で僕は自分を表現することが苦手な人間に育っていきました。7歳下に妹がいますが、妹が学校に入る時期になると、店も数店舗と広がりゆとりが出てきました。
◆お父様のお仕事を見ていてどう思われていましたか?
朝早くからのきつい仕事で、絶対に継ぎたくないと思っていました。でも商売人の子どもでしたから、自分の商売を持ちたいとは思っていて、花屋に勤めていました。
二十歳の時に母親が病気になり、家の仕事を手伝うことになってしまって、一つの店を任されました。
◆継がれてから、どのように商いをされてきましたか?
豆腐屋の息子なのに豆腐なんか全く作ったことがなかったのです。はじめは試行錯誤でしたね。ある時つくった豆腐がどうにもまずくて、これは売れそうに無いと思ったら、近所にもらうといった人がいました。それであげたら、なんとあまりのまずさに犬も食べなかった!といわれてしまって。(笑)そんなスタートでしたね。
当時は作れば売れる時代でした。商店街は活気がありました。ですから、たくさん作ってたくさん利益のある豆腐屋を目指していましたね。
しかし1990年代大型量販店ができ碑文谷から自転車で買い物に来てくれたお客さんたちがぱったりと途絶えてしまって、売上が半分になってしまったのです。そんな現状を前に私は何もできませんでした。でもどうにかしなくてはいけないと考えだしました。そんなときに山形で「豆腐の失敗しない作り方」という講座があるのを知り出かけていきました。それは農家の人のための豆腐講座だったのです。そんなところに豆腐屋が行っちゃったのです。(笑)
◆山形では何を学びましたか?
そこの先生には豆腐屋の姿勢はこういうものだよということを教えてもらいました。おいしい豆腐をつくりたいならば、「大豆に聞け、豆腐に聞け、お客に聞け」って言われました。今になれば理解できるのですが、当時は、「なに言ってんだ。豆は豆だろう。豆腐は豆腐だろう」って心の中で思っていました。(笑)「もっと大豆に語りかけろ、豆腐のできを良く見ろ、最後にお客さんに聞けば分かるはずだ」ってことなのですね。何しろそれまでは外に出たことも無かったので、いろいろなことがとても新鮮でした。そんな中で先生から、京都に行ってみろと進められました。
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