【桜井】一世を風靡したタイガー計算器の歴史についてお伺いします。
昭和20年代、あるいはそれ以前に生まれた人なら、小さなハンドルを回すとガチャガチャ、チーンと音のする金属の塊をご存知ではないでしょうか。1960年代まで、日本で計算機といえば、この機械式計算機「タイガー計算器」を指していました。このタイガー計算器は、高精度は乗除算に必須の道具として、この計算機は日本全国で使われていました。コンピュータ黎明期をになった方々からも、「計算はもっぱらタイガー計算器でした」という声をいただいていたようです。戦中から戦後にかけての一時期は、官公庁からひっぱりだこでした。
◆タイガー計算器を発明した方は?
大本寅次郎という人物で、大本は、1887年に大阪で生まれ、小学校を出た後、鉄工所の職工見習いをしばらく続けていたのですが、下働きはつまらないと独立して地元大阪の十三で小さな鉄工所を始めました。朝早くから真夜中まで仕事に励んでも、儲けは微々たるもので、それならば、よそでは造れないものをと、特殊なアイディアと技術を組み合わせた商品づくりをしようと考え、提案型の製品を作るようになりました。創意工夫で数々の発明をしています。「欲しい製品を手間ひまかけて開発してくれる珍しい工場」という評判が広まり、注文がどんどん増えていきました。そのため、見積もりなどの計算量が膨大になって、もっと速く正確に計算ができたらということで、機械式の計算機を作ろうというアイディアが浮かんだようです。着想から4年後の1923年に機械式計算機第一号を完成させました。この計算機は、大本寅次郎の名前を取って、虎印計算器と命名され、その後すぐに、TIGER BRAND に改めました。社名も、大本鉄工所からタイガー計算器製作所と改称、経営内容も計算機の製造販売専業に変更しました。
◆当初のタイガー計算器の売れ行きはいかがでしたか?
1930年には、優良国産品の選定を受け、翌年に商工省から研究費8000円を下附されました。この年の商工省の研究奨励金の総予算が10000円だったそうです。その後、いろいろな表彰をうけているのですが、その栄誉とは裏腹に、なかなか普及しませんでした。大本が苦労したことは、いかに売るかということでした。苦しい経営面を補ったのが、新順一です。新は、コロンビア大学で経営を学んできた人間で、ものを作るだけではなく、セールスマンも作らなければいけないと考えたのです。この新の経営力が備わって、タイガー計算器は飛躍を遂げることになりました。
戦中戦後、官公庁からの大量注文に応えられない状態でした。購入されたタイガー計算器には、無期限で無料修理、無料サポートがついていました。そのため全国に営業所を作っていきました。一台一台にシリアルナンバーが記してありますから、どの番号の計算機はいつどこに売ったかがすべて台帳に記録されて保管されていました。
その後、日本では、1964年から電卓が発売され、時代はあっという間に電子式計算機一色に変わっていき、1970年、タイガー計算器は製造の幕を下ろすことになりました。シリアルナンバーは45万代が最後となりました。
現在、当社OBが、日本機械学会選定の機械遺産の登録申請を出しています。認定がいただけるとうれしいですね。
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