【桜井】子どもの頃はどのような生活を送られていらっしゃいましたか?
私が子どもの頃は、日本全体が本当に貧しい時代でした。若い働き手がみんな戦争に持っていかれていましたから、子どもの働くのが当たり前の時代だったのです。そんな中で、私は6人兄弟で、上の2人の弟と3人でよく働きました。弟が年子で生まれたため、私は祖父の部屋で昔話を聞いて育ちました。私の考え方は祖父の思想の影響を強く受けているようです。私の生まれた遠山村で、後藤家は祖父夫婦、そして両親たちが自給自足の生活の礎を守り、先祖伝来の田畑や山を守り増やしていった村でも有名は働き者でした。私もおかげでよく働く娘に育っていきました。人は育てられた環境に大きく影響されるものです。自給自足が基本でしたから、学校から帰っても遊ぶ暇もなく働きました。
田んぼや畑仕事、豚・兎・鶏などの家畜の世話、寒天づくり、養蚕・糸取り・機織り・縫製と、今思うと生きていくための全てを、こういった仕事の手伝いの中で訓練させてもらいました。
1944年、父が満州へ出征して一家の大黒柱がいなくなりました。その年に1月末に妹が生まれ、私は女学校に通いながら、母を助けて家を切り回し、がむしゃらに働きました。母は口癖のように、「子どもは一番上がしっかりしないと、下が全部だめになる」と言っていましたから、長女の私は、自分がしっかりしなければと、休む暇なしで父の留守を守りました。この「上がだめなら、下も全部だめになる」という母の教えは、そのまま企業の経営にも結びつきました。人育てを重視する経営者、管理者にとっては、最大の戒めの言葉であると思います。
◆文化堂さんの創業は?
今年で創業55年になります。昭和28年品川区に4坪のお菓子屋を開業しました。敗戦後8年、やっとおやつを食べられる時代になり、私がお店を出したところでも、100Mに12店舗もお菓子屋がありました。競争は厳しかったですよ。どうやって生き抜いていくかを50年前からやっていましたから、今のこの状況の中にあっても、ぜんぜん競争が激しいとは思いません。
当時、競合店に問屋から荷物が来ると全部チェックしていました。でも駅前の大きなお菓子屋にはどうやったって売上で勝てるわけがありません。どうしたら勝てるか、それは支店を出すことだと気づき、3年後から支店を出し始めました。これは次々と従業員が来てくれたからできたことです。
当時栃木から中卒の女の子がどんどん来てくれました。その子たちは、始発から終電まで本当によく働いてくれました。貯金をさせて、成人式には振袖を作ってあげ、嫁入り支度は問屋を走り回って揃えてあげて、21人お嫁に出しました。
人はやる気にすれば、想像以上に働くということを彼女たちから学びました。これが私のその後の経営の原点になっています。しかし、昭和38年ごろは池田内閣の所得倍増計画で、さっぱり従業員が来なくなりました。栃木県に工業団地ができ、大手企業がこぞって進出して、県自体がs人手不足になってしまいました。
これはダメだ!お菓子屋だけではダメだ!もっと人を使える仕事に変えよう。と思ったのが、スーパーマーケットへの業態変更のきっかけでした。また素人からの出発です。お菓子屋の15年は創業第一期でした。
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