【桜井】童心社さんの歴史について教えてください。
童心社は今年で51期目を迎えた、児童書ばかりではなく、紙芝居の専門出版社です。童心社は創業51年といいましたが、前史10年があります。この10年というのは紙芝居の研究会でした。
戦後民主主義が広がっていく時代背景の中で、その研究会は、出版もしていましたが、赤字を抱えて結局は立ち行かなくなってしまいました。そこで、きちんとした会社を作る必要があるということでできたのが童心社なのです。ですから初めは紙芝居の出版社でした。そういう経緯もあって、この50年間で2000点に及ぶ紙芝居の新刊を出版してきています。
でも、マスコミで取り上げられる紙芝居というのは、大体街頭紙芝居ですね。この街頭紙芝居は、世界大恐慌の1929年の翌年、1930年に生まれたようです。失業者が溢れていて、その中で紙芝居を演じてみようと思った人たちが、言葉は余りよくないのですが、日銭稼ぎにやったので、私もなんどか見たことがあります。
私が持っている紙芝居は「浦島太郎」。浦島太郎が竜宮城に行きますが、途中でたこ入道が出てきて、斬った張ったの大騒動になり、さて浦島太郎は竜宮城に行けるでしょうか?(笑)という何十巻にもなるもので、それも原画のまま演じる紙芝居だったんですよ。
私たちがやろうとしているのは、保育園や幼稚園の子どもたちがみる、教育紙芝居というものです。紙芝居の特性というのは、紙芝居を演じることで、子どもたち同士、子どもたちと演者の間で共感の世界が生まれることです。この紙芝居は日本人が生み出した大切な文化財でもあるんですよ。
私が図書を手がけた頃というのは、日本でもやっと絵本が出版され始めたちょっと後です。
◆私も子育てをしていた時に、図書館で紙芝居を借り子どもたちの前で演じたことがありましたが、そのときの子どもたちの目の輝きを思い出しました。
酒井さんが、編集のお仕事に入られたきっかけは?
当時は女性が就職するのはとても難しい時代で、でも私は自立しなければ いけないと思い、教員免許を取りました。
中学校に教育実習にも行き社会科の授業を担当して、それはそれでとても面白かったし先生方も褒めてくれたのですが、教師って、学校をでて職についたらもう一国一城の主でしょう。私はそれって怖いと思ったのです。よっぽど自分がしっかりした人間でなければ、向上心があり自分に厳しい人間でなければ、 教師は務まらないと思いました。私は追い込まれなければ何もできない人間だから、教師には向いていないと思ったのですよ。母は教員になると思っていたからとてもがっかりしていましたが。(笑)
それから就職活動を始めて、たまたま童心社が社員を募集しているということを聞いて応募したのです。ですから、編集をやりたくて目指していたというわけではなかったのです。この話をするとがっかりされる方もいらして・・・。(笑)
◆童心社さんの貫いているものは?
「平和でなければ子どもたちのしあわせは守れない」それが一つ、そしてその前提の中で、子どもたちに「愛」とか「勇気」とか「冒険」を語っていきたいと思っています。
日本の子どもの本というのは、戦争中青春時代を過ごした著者の方々が、本当に人生を込めて作品を書かれていることが多く、その方たちが日本の子どもの本の中核を担ってきました。その方たちは、戦争がいかに残酷に肉体だけでなく精神までも破壊していくものかをよくご存知です。そういった方々は、戦争は聖戦であるという教育を受け、戦後価値感が大きく変わり、自分のアイデンティティを探し求め、その中で作品を生み出してきました。
今はどうかというと、ものとカネはあふれているけれども、こころがとても貧しくなっているそんな時代だと思うのです。その中でもっとも人間にとって大事なものを語るということはとても難しいことです。そういう意味では、これからの子どもの本がどういうような内容になっていくか、たいへんな状況だと私は思っています。でも童心社は、子どもに届けなければならないものを届けて行きたいと願っています。
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