【桜井】京都でどのように育ちましたか?
私の育った家は長屋の小さな一軒に親子5人と祖母と叔父と叔母の8人で住んでいて、表でも裏でもハタ織り(織機)の音がやかましい西陣のど真ん中でした。
洋服店を営む母方の祖母と叔父と叔母の3人は私たちとは別所帯で、父は大阪電通大の講師をしており母は和裁の内職で兄、姉、私の3人を育ててくれました。
父は研究のためと本ばかり購入して満足な生活費を入れてくれず、何かにつけ「商売人は人をだますから信用したらだめだ」と言い、自分だけの社会を作っていました。そんな父に子どもたちは3人とも反抗的でした。私は兄や姉とは十ほども年がはなれていて、「おばあちゃんっ子」で育ちました。
子供の頃の私は不器用で劣等感を持った子でしたが祖母だけは「この子は何か良いところが必ずある」とかばい立てくれて、小さな時から「情けは人のためならずというのは回り回って自分に返ってくるのやで」「苦労は買ってでもせえというやろ、人の嫌がることは自分が進んでやらなあかんで」とか世間の格言をよく話してくれました。今となってはその言葉が自分を育ててくれたと感じています。
◆西陣織の会社に入られたのは?
兄が西陣の糸商に勤めていた関係から、ある織り屋さんの紹介で西陣の仲買商の会社に入れてもらいました。17人の会社でしたが6億5千万円の年商をしていました。
社会のことを何も知らない私は「この品物と同じ反物を織り屋さんへ行って貰ってこい」といわれたとき、手を出して「お金ください」といいました。そしたら先輩は「おまえはアホか、品物と一緒に伝票を貰うてきたらいいんや」と叱られました。(笑)いろんな事を教わりながらも、慣れてきた頃には京都室町の問屋さんに商売に行ったり、北陸の福井から新潟まで車に満杯の商品を積み二人一組で集金と商売をかねて月2回の出張をしていました。
また、この会社では営業だけでなく、各種伝票から帳簿への転記の流れや棚卸しなどでの在庫管理のあり方など、今の仕事に役立つノウハウを深く教わりました。17人の会社ですがその内、5人は経理事務で2人が営業事務。営業は社長を含めてわずか10人と、今では考えられないバランスです。その当時の事務は全て手書きで10種類以上の帳面が並んでその一冊一冊に4人の事務員さんが丁寧に記帳していくわけです。経理部長は全帳面の記入方法や転記する元の伝票との関わりなど事細かく教えてくれたことが今の財産になっています。
入社5年を経過するときに呉服関係の商売のあり方や呉服そのものの将来性など考えて退社しました。このころの呉服業界では手形撤廃の話もありながらも基本的に手形取引が主流でした。
ところが手形支払期日が120日から150日→180日→210日へと益々延びてゆきました。また「小切手で支払うから6%引き」と一方的に決めつけ値引きをする。支払残額は勝手に残す。こんな非常識的なことが日常茶飯事。また、時期が過ぎ売れなくなった商品を平気で返品するなど悪しき商道徳が蔓延していました。こんな卑劣な商売から脱皮しないと自分までが非道徳な心を持つことになると転職を決意しました。
◆東京に出られたきっかけは?
西陣の仕事を辞めるときに次は何をしようと考えたとき、これからは『インテリアデザイン』と考えて友達の親の知り合いが東京の方で建材販売の会社をやっていると聞き、それをツテに上京しました。
その会社は、埼玉の川口の会社で当時手広く建て売り住宅をやっていた工務店や大和ハウスなど得意先は大手企業などもあり、店舗の内装なども自社でデザインを行っていました。しかしそこに入社してみると、私の仕事は、営業の仕事のみで、デザインの勉強もできると期待していたのですが、現実はほど遠く1年で退職しました。
そのときに知り合っていた近くにある喫茶店のマスターが元は大阪の芸能社の社長だったことから、私が子供の頃に大ヒットをとばした女性歌手と知り合いになっていました。建材会社を辞めた私に芸能プロがマネージャーを募集しているから入らないかと口添えしてもらい芸能プロダクションに入社、当時、素人のスイングジャズバンドでトロンボーンをやっていた私は、譜面も読めるので歌手のマネージャーにはうってつけと、重宝がられました。有名歌手や映画俳優などとも直接話ができる機会などもあったのですが、やはり芸能界、裏と表の違いの中で、自分の生きる場所ではないと考え、3年で京都に帰りました。
京都へ帰って、自分に合う仕事を探したかったのですが、やっぱり西陣から離れられずに、一時的に織物のデザインや織物加工などの仕事をして生活をしていたのですがこれにも無理がありました。それで、もう一度、思い切って違う世界へ飛び出そうと決心したのです。
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