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どのようにして、NPOをたちあげていきましたか?
当時大学生だった三人で立ち上げました。フェリス女学院大学に通っていた私と、当時東京大学の学生だった本木、青木と共に立ち上げました。本木、青木は、「社会問題を事業的に解決する『社会起業家』に共感していまして、自分たちでもそのようなプロジェクトを行いたいと思っていました。その時に、「児童買春問題を解決したい」という思いを持った私と彼らが出会い、児童買春問題を事業的に解決しようとかものはしプロジェクトを誕生させました。
私たちは当時学生でしたから、社会が求められるレベルにまで達していないと自覚していました。そこで経営コンサルタントなど多くの社会人のサポーターの方々から、ビジネスに使われる手法を学び、経営のアドバイスをいただきました。始めの半年間は、「文献調査」「NGOヒアリング」「現地調査」を行い、今実際にどういう問題が深刻なのかを把握しました。その後事業モデルを組み立てていきました。
どういう事業をするかが決まったら、それをコンペに出し、ブラッシュアップしていきました。また、同時に NPO の中にIT部門を立ち上げ、WEBの仕事をして活動資金を貯めていきました。資金が貯まった 2004 年 6 月に、カンボジアに事務所を立ち上げ、カンボジア人スタッフを雇い、子ども達へのパソコン教室を開始しました。
カンボジアでの現地調査は大変でした。ほとんど知り合いのいないカンボジアで、慣れない英語でNGOにアポイントメントを取っていきました。「私英語しゃべれない!」とガチャンと受話器を切られることも度々でした。今では沢山の協力者がいらっしゃいます。
やはり内戦の時の虐殺が、カンボジアが力をつける上での障害になっています。虐殺で先生、医者、僧侶、伝統舞踊の踊り子など、知識層でリーダーシップの取れる人々が殺されてしまいました。そのため、長年の経験のある優秀な人材が不足してしまっています。また、農村部にはまだ地雷が残っており、復興の妨げになってしまっています。内戦のせいで、人々の心は傷つき、ポル・ポト時代を経験している人々は、「人を信用することが出来ない」などのトラウマを抱えている人も少なくありません。モラルも破壊されてしまったという印象を受けました。
しかし、内戦後時間が経ち、都市部は急速に発展してきました。プノンペンは行く度に新しい建物が建っています。スタッフ雇用の面接をしてみれば、とても優秀な若い世代が沢山出てきて、「カンボジアには優秀な人材が居ない」という考えをいい意味で裏切られることもあります。若い優秀な人材は、どんどん育っているようです。
問題は、都市部と農村部で機会の差があるため、都市部と農村部での格差が開き、富める者はより富み、貧しい者はより貧しくなっているという現状があります。この現状を、教育支援や就労支援を行い、全体的に底上げしていく必要があると思います。
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かものはしプロジェクトの命名の意味は?
実は、好きな動物の名前からつけました(笑)。 その後、「カンボジアと日本をかけるはし」と「かものはし」という音が似ているということに気づき、ずっと使う名前になりました。かものはしという名前は、英語名称が多い国際NGOの中で、記憶に残りやすいようです。私は就職活動をすることをやめる決意をし、仲間は内定を辞退するものもおり、この事業に自分たちの人生をかけようと、覚悟を決めました。
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かものはしプロジェクトさんはNPOとしてとてもユニークなあり方だと聞いていますが、どのような運営をされていますか?
私たちの事業の特徴は、 NPO の中に収益部門があることだと思います。IT部門が収益をあげ、それがカンボジアでの活動費用や、日本の事務局経費や人件費になっています。普通の NPO ですと、寄付・助成金・会費が主な収益源なのですが、かものはしではIT部門からの収入が半分近くを占めているため、活動がしやすくなっています。
かものはしはカンボジアに子ども達へのパソコン教室を持っています。将来的にそこを卒業した子ども達が、日本からの仕事をうけられるよう考えています。それによって、それまではコストセンターだったパソコン教室が、プロフィットセンターになっていけます。
また、農村の職業訓練センターで作った製品を、日本市場で販売する支援を行っています。例えば、カンボジアの貧しい女性たちに絹織物の職業訓練を行っている NGO と提携し、そこで作った絹織物と日本のデザイナーの女性を掛け合わせて、浴衣の帯を作りました。
● 帯プロジェクトについて
これにより、女性たちの収入向上をさせ、日本の方たちにカンボジアを身近に感じてもらえたらと思っています。更に、貧困層の収入向上のために日本の市場とカンボジアの生産者を結びつける企画を今後も続けていく方針です。
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